yumboのこと

【以下の記事は、2013年9月13日に発行された都築響一氏編集によるメールマガジン"ROADSIDERS' weekly" vol.083に寄稿した澁谷の文章に加筆、改訂を加えたものです。記事と写真の使用を了承して下さった都築氏に感謝いたします。】

 《2009年『これが現実だ』録音作業(撮影:山路知恵子)》

都築さんへ

先日は代官山のライヴにお越しいただき、改めて、ありがとうございました。yumboの結成以前から成り立ちについての文章を書くように、とのことでしたが、結局、yumboの事を書く前に自分の話から始めてしまったために、とんでもなく長い文章になってしまったことをお許しください。大体が独りよがりな作文に過ぎませんので、不要と思われる部分はバッサリと棄てて下さって結構ですので。

故郷と音楽

僕が生まれたのは1970年で、北海道の栗山町という田舎町ですが、詩人や画家、陶芸家が多く住むというここでの記憶はあまり無く、程なくして一家で引っ越した隣町の長沼町に21才になるまで暮らしていたので、長沼町が故郷という感じがします。長沼町は電車も通っていないような(代わりに運河があった)田舎町で、典型的な農業と林業の町でしたが、両親は伯母が経営していた「クラブ葵」というスナックを任されていて、家族の住まいも「葵」の階上にありました。店と住居は「銀座区」という、町で唯一の飲み屋街の一角にあって、家の周辺の何処を向いても飲み屋か飲食店があるという環境だったので、開栓したビールやミネラルウォーターの王冠の、金属とすえたような臭いが入り交じった独特の臭いにノスタルジーを感じます。当時はカラオケが台頭する前夜のような時期で、伯母の店にはジュークボックスがありました。今でもよく憶えていますが、曲名のカードが表示されたパネルには、サイケなドレスを着た長いつけ睫毛の色っぽいお姉さんの写真がプリントされて煌々と光っていました。僕と兄は、このジュークボックス用に購入されたレコードで不要になったものを、オモチャとして与えられ、四角くて内側にアルミが張ってあるお茶箱にシングルをたくさん溜め込んでいました。大半は美川憲一の「さそり座の女」とか、ごく普通の歌謡曲のレコードでしたが、中にはビートルズなどの洋楽もあって、"She Loves You"か"Please Please Me"を聴いて衝撃を受けたのが、最初のロックンロール体験だったと思います。いま考えると、あんな田舎のスナックのジュークボックスになんでビートルズなんか入れてたんだろうと不思議ですが。しかし僕と兄の一番のお気に入りは、ラロ・シフリンの「燃えよドラゴン」のテーマ曲でした。ブルース・リーが誰なのか、なんでレコードの中で「アジャーッ!!」とか叫んでるのか全く意味は分かりませんでしたが、これはオーケストラのアレンジのゴージャスさという点で日本の歌謡曲とは比較にならないぐらい深遠かつ神秘的な世界に思えて、夢中になって何度も何度も聴きました。

YMOとシンセサイザー

次に音楽から衝撃を受けたのは、小学校3年生ぐらいの時に聴いたYMOでした。兄がフジカセットのCMで「テクノポリス」を聴いてシングルを地元の電器屋さん(レコードも売っていた)で買ってもらったのが最初だと思いますが、これは僕にとって人生の一大事の一つでした。5年生ぐらいまでは、真剣に「どうすればYMOの一員になれるか」とノートに計画をしたためていたものです。6年生になると、もう少し現実的になって自分のバンドやレコードの構想を練るようになりました。この頃は家にあった灯油ストーブや電気スタンドの音を録音したり、祖母に頼んで庭からワイヤレスマイクで声を送ってもらってラジオで受信したり、リコーダーで何時間も即興演奏したりして「こういうのが仕事になったらさぞかし楽しい人生だろうな」と悦に入っていました。教授の「サウンドストリート」というFMの番組でRip Rig & PanicやPhewなどのニューウェーヴを聴いて「世の中には奇妙な音楽を堂々と作って仕事にしている人たちが居るんだな」と感心していたので、もろに影響を受けたのです。それから兄の同級生の音楽に詳しいお兄さんからXTCを教えてもらったり、兄と小遣いを出し合って買ったDonald FagenのLPを聴いたりすることで、曲作りにも関心をもつようになりました。兄が酒屋でバイトをしてためた金でYAMAHAのCS-10というアナログシンセを買い、モジュラーステレオとウォークマンをどうにかして繋いでピンポン録音をする技術を編み出したので、しばらくはシンセを使った多重録音に熱中しました。2台目のシンセはKORGのPOLY800というポリフォニックのシンセで、これはシーケンサー内蔵で和音も弾くことができたので、「明星」という雑誌の附録に付いていたピアノコードの図を見て、和音の押さえ方を勉強しました。ビートルズのスコアブックを買ったらコード進行も書いてあったので、歌いながらコードを弾いてみることによって、それらの曲がどのような構造を持っていて、各コードがどのような役割を持っているのかを知ることができました。父親は僕が3年生ぐらいの時に、派手な外車を突然借りてきて僕と兄を乗せて町をドライヴし、寿司屋でマグロを食べさせたりしたあと蒸発しました。

ミニコミと現代詩

バンドを作って自分の曲を演奏、という夢が高校の夏に参加したバンドがとことんうまくいかなかった事で挫けてしまい、'87年頃から'90年頃までは音楽作りよりも、「DOLL」や「Fool's Mate」の読者欄を通じて知り合った遠くの人たちとの文通や、自宅にこもってのミニコミ作りが生活の中心になっていきました。文通で知り合った人たちはみな僕よりも年上で、博識でした(少なくとも16,7の僕にはそう見えました)。聴く音楽も、文通友達に工藤冬里やVelvet Undergroundなどを教えてもらって、ずいぶん幅が広がりました。そういう人たちに教えてもらったものの中で最も刺激的だったのが、石原吉郎、鮎川信夫、瀧口修造、北園克衛、吉増剛造などの現代詩でした。それまでに文学というと「ライ麦畑でつかまえて」(これは今でも大好きですが)とか筒井康隆の「虚構船団」ぐらいしか知らなかったので、これも夢中になって読み漁り、影響を受けやすい僕は「将来は詩人になろう」と思いつめ、友達がスタッフとして手伝っていた谷川俊太郎の講演会に潜り込んで書いた詩を封筒に入れて手渡したり、吉増剛造に詩を郵送して励ましの葉書を貰ったり、友人で詩を書いている人たちに声をかけて同人誌を作ったりしました。気がついたらもう学校にも行かず、地元の農機具修理工場でバイトしたりしていました。それが'91年の夏に大失恋をしたのがきっかけで女々しい詩を書くようになり、これでもう詩人としての道も無理だと思いましたが、そうした情けない詩に曲をつけてみると、何か最初にやろうとした事とは予想外の方向へふくらんだりして、思いのほか面白いことに気付きました。それまではシンセで奇妙な音を出して喜んでいるだけだったのが、ここへきて「歌を作る」という新しいやり方に目覚めたわけです。当時、僕は銀行の使い方もよく知らないバカな奴で、もうじき成人になろうというのに、一人で蕎麦屋に入って注文して食べただけの事で壮大な達成感を感じたりするほどに世間知らずでした。

札幌から仙台へ

'91年の暮れに運転免許を取って、長く暮らした長沼町を離れて、カラオケボックスやビデオレンタル屋、写真のDPEなどのバイトを転々としながら、千歳市や札幌市で短期間一人暮らしをしました。歌を作って自宅録音したテープを文通友達に送って聴かせたりはしていましたが、誰かと一緒に音楽を作ったり、人前で演奏したりすることはこの先無いだろう、と思っていました。札幌で過ごした最後の半年間は、職場以外では誰とも会うことはなく、自宅・バイト先・近所のビデオレンタル屋の三ヶ所を、ただただグルグルと巡回するだけの日々でした。自宅は宅録をするか映画を観るためだけの場所と化し、作りだめしたスパゲティが腐っていても平気でムシャムシャ食べながら映画を何本も観て、3時間ぐらいしか寝ていない状態でバイトに行き、休みの日は食パンを食べながら朝方まで曲作りをする...というような生活でした。ある日バイトの昼休みに、給料日だったので銀行で給料を下ろした後で明細を眺めていたら、なぜだか特別好きでもない「遠くへ行きたい」というジェリー藤尾の歌が頭の中で流れて、そのまま衝動的に行動していました。バイトへは戻らず、家に帰ってほとんどのレコード、CD、本を鞄に詰め込んで、札幌市内のあちこちの中古レコード屋や古本屋を回って全て売り払い、大好きでよく通っていた札幌PARCOの中にあった蕎麦屋で食事してから、その足で千歳市に住んでいた頃の女友達の家へ行きました。半年振りに突然訪ねたので彼女は大変驚き、「シブヤくんどうしたの?」と言うので、口から出任せで「ちょっとの間、旅行に行こうかと思って」と説明して、翌朝に苫小牧まで行って仙台行きのフェリーに乗るから、一晩泊めてほしいと頼みました。翌日別れる時に、カンのいい彼女は「シブヤくん、向こうで落ち着いたら必ず連絡ちょうだいね」と言いました。その夜、仙台行きのフェリーの公衆電話から、仙台に一人だけ居た友達に電話をして、「いろいろあって仙台に住みたいので、当面家に居させてもらえないか」と頼むと、快く受け入れてくれました。その友達とはもう疎遠になってしまったけれど、今でも本当に感謝しています。こうして、僕は'94年の7月末に仙台へ引っ越しました。

高円寺と松本

仙台に越してから1年ぐらいは、友達が出来なくて苦しみました。最初に世話になった友達に腰巾着のようにくっついて、彼が友達と遊ぶ場に「居させてもらう」ような、寄生虫みたいな状態で悶々と日々を過ごしていました。音楽への意欲も減退して、仙台の楽器屋で買った安いピアニカを公園などで即興で弾くぐらいの事しかしていませんでした。
 《1994年秋、台原森林公園(撮影:渡辺伸夫)》

それが'95年の暮れに、北海道に居た頃から文通していた東京の年上の友人から、高円寺の20000Vでのライヴに出演しないかという誘いを受けました。ライヴに出演と言っても、その友人や僕が参加していた「TOTOTO」というミニコミが主宰のイベントで、ミニコミの周辺に居た大勢の人たちが一斉に即興演奏をする中に混ぜてもらう、というだけの事でしたが、ともかく、僕にとってはこれが生まれて初めて人前に出て演奏をするという経験となりました。PAというものを知らなかったので、持っていったピアニカにマイクも何も付けずに、周囲の轟音の中で夢中で弾き続けました。ライヴが終わってから、誘ってくれた友人が、何も聴こえなかった筈なのに「いい演奏だったよ」と誉めてくれました。ちなみにこの年上の友人というのは、フリクションやあけぼの印でトランペットを吹いていたシェルツ・ハルナさんです。翌年の春には、前述の「TOTOTO」を通じて知り合った松本の友達が、初めて企画したライヴイベントに、全くもって無名で素人以下の僕を誘ってくれました。「ピアニカで即興しか出来ないけど、いいの?」「いいよいいよ。ぜひお願いします」「じゃあ...」という調子でしたが、いま考えると本当に大胆というか、無知だったと思います。この時の対バンは日野繭子さんと長谷川洋さんのC.C.C.C.、東京のキセル楽団、北海道時代に文通していたJON(犬)で、トリは何年も前から憧れていた突然段ボールでした。僕の演奏は15分程度の貧弱千万な出来の即興演奏でしたが、終わってから、出口付近の階段に座って聴いていた日野さんが「あれ、もう終わり?せっかく仙台から来たんだから、もっと演っても良かったのに〜」と言って下さったのを憶えています。あと、旅館での打ち上げのために近所のコンビニへ買い出しに行くことになって、突然段ボールにトラとしてドラムを叩きに来たチコヒゲさんに「きみ、北海道出身なの?おれ樺太!」と気さくに声をかけていただいたのも。これが自分の名前でステージに上がった最初の経験となり、僕はたった2回のライヴハウスでの演奏で、すっかり音楽に引き戻されてしまいました。人前で演奏する気持ち良さとか音楽への興味もありますが、一番大きかったのは、こうした現場で出会って言葉を交わした有名・無名のミュージシャン、パフォーマーたちの魅力や、暖かさに強く惹かれたのだと思います。

日々之泡

松本で演奏したあと仙台の日常に戻って、当時働いていた中古レコード屋のカウンターで大津さんという同僚と並んで座り、レコードの盤面をクリーニングしていたら、大津さんがだしぬけに「なんか面白いことないすかね〜」と言いだしました。山形の南陽出身の大津さんは僕よりも一回り近く年上で、以前は仙台でノイズのバンドに在籍しギターも弾いていたという人でしたが、聴いている音楽はボサノヴァやサンバやクレプスキュールという奇特な人でした。会話の中で出てくるバンド名もアフター・ディナーとかジョイ・ディヴィジョンとかサーテン・レイシオなどで、僕が仙台に来てから初めて、誰の手も借りずに仲良くなることができた貴重な友人でした。黙って聞いていたら、大津さんはかなり予想外の事を口にしました。「シブヤくん、おれとバンドでもやりませんか?」と。面食らった僕は「でも僕、ピアニカしか出来ませんよ」と言ったものの、東京や松本などの遠方の友人の手助け無しで、仙台でもなんとなれば何か面白い事を始められるんじゃないか、とボンヤリ考えていた僕は、すぐに大津さんからの誘いに乗りました。大津さんは次々にアイディアを出してきました。「ライヴハウス借りたりするのは金がかかるし、今からブッキングしてもらうのにコネ作るのも面倒臭いから、その辺の公園とかで勝手に演ればいいと思うんですよ。ゲリラですよゲリラ!演奏は夜中!夜中の1時ぐらいに集まって演るんですよ。しびれる〜。もちろん即興ですよ即興!Incus、FMPですよ!」お客さんの滅多に入って来ない仕事場で笑い転げながら、僕らはこの「真夜中の即興集団・日々之泡(ひびのあわ)」の素朴なアイディアに夢中になりました。「日々之泡」と命名したのも大津さんでした。後になって参加メンバーから「ボリス・ヴィアンですよね?」と訊かれた大津さんは「あ〜、そうらしいね。おれ読んだことないし知らなかったから、おれはボリス・ヴィアンに匹敵するセンスの持ち主って事ですね!」と涼しい顔で言っていました。僕らはすぐに最初の「ライヴ」のチラシを作りました。チラシと言っても、グループ名と、集合場所と時間を書いて、「見学、演奏への参加は自由です」と書いてあって、募集広告のようにも見えます。つまり、このチラシを見た人はその気があれば、楽器を持って集合場所に来さえすれば、誰でも日々之泡の「メンバー」になれるのです。経験も技術も問わないし、どんなおかしな奴でも(人殺し以外は)受け入れる。単調な毎日に飽き飽きしていた僕らは、チラシを手に、思いつく限りの知り合いに声をかけたり、レコード屋や喫茶店にチラシを置かせてもらいました。

 《1997年にリリースした日々之泡のカセットの1つ》

そういうお店の中に、仙台駅前にあったジャズ喫茶「AVANT」もありました。AVANTは本物のフリーミュージックやフリージャズをかけている数少ない店の一つで、コーヒーが安くて美味い、そして黒い壁の店内にカッコイイマスターが居る、僕の憧れの店でした。チラシを持って行くと、サックスを習っているという店員の稲毛さんという女性が、「わ〜、真夜中に即興...カッコイイ!これ、私も参加していいんですか?」と言うので、「モチロンです!」と答えました。僕は、自分の憧れの最高にカッコイイお店の人が「バンド」に入ってくれて、何だか偉くなったような気がしました。その後も、全13回の真夜中の演奏の中で、日々之泡には続々と参加者が集まってきました。1回きりの人も居たし、毎回来てくれる人も居たし、面倒臭がるのを無理に誘って連れて来られるような人も居ました。場所は決まって仙台市内の公園で、集合すると「こんばんは」も「じゃあ、始めましょうか」の言葉もなく、誰かがおもむろに奇矯な音を出し始めて、それが合図となって各自、おずおずと演奏をし始めます。演奏がなんとなく終わると、ボソボソと世間話をする人たち、無言で楽器を仕舞っていつの間にか帰っていく人たちなど色々でしたが、一度として、みんなで居酒屋で打ち上げをしたりはしませんでした。もちろんそういう決まりもありませんでしたが。最後の日々之泡は'97年の夏に深沼海岸に集まった時だと思います。みんなもうすっかり日々之泡に飽きており、潮風にやられて暗闇の中で意気消沈していました。大津さんの様子を窺うと「もうこういうのは疲れましたね〜」と言います。僕も、外で毎回似たような即興をダラダラやるよりも、自宅で多重録音をして作品を作る方が楽しかったし、そろそろ何か新しい事を始めたい時期に来ていました。日々之泡にはもともと「ファン」なんて居なくて、それぞれが自分勝手な演奏者の集団でしかありませんでしたから、僕や大津さんが「次はどこそこでやります」と告知さえしなければ、このバンドは簡単に消滅してしまいますし、その通りの末路を迎えました。誰一人として、「今度はいつ集まるんですか?」などとは言い出さなかったのです。

夏海さん

話は前後しますが、僕は日々之泡の活動中に、現在の妻である夏海さんと出会っています。友人が経営している「S」という中古レコードと古本のお店があって、そこで手に取った「TEM(テム)」というフリーペーパーがきっかけでした。'96年当時、絵描きの夏海さんは何人かの友人と共同で「TEM」を発行していて、身近に居る面白い人を取材したり、仙台市内のあちこちに壁画を描かせてくださいと呼びかけて実行したりという活動をしていました。僕がこの時手に取った「TEM」にも彼女の素朴でユーモラスな絵が載っていて、非常に心惹かれるものがあり、日々之泡にかこつけてこの人と知り合いになれたら楽しいかもしれない、と思って夏海さんに電話してみました。夏海さんは僕が説明する日々之泡のアイディアに前のめりで興味を示してくれて、さっそく次の演奏を観に行きたいと言ってくれました。また偶然にも、彼女は僕が無料配布していた自宅録音のカセットを「S」で入手していることが分かったりして、僕らは知らないうちに互いの作品に興味を持っていたことを面白がらずにはいられませんでしたし、「工藤夏海」という名前がまた、僕が尊敬する音楽家「工藤冬里」の逆であることにも何か運命的なものを感じました。南三陸の志津川出身の夏海さんは、僕とはまるで違う文化圏を通って来た人でした。彼女が持っている本は赤塚不二夫の「レッツラゴン」や都築響一の「TOKYO STYLE」でしたし、あまり絵に詳しくない僕にキーファーやルオー、ベーコンなどを教えてくれました。交友関係も幅広く、小岩勉さんという、女川の写真集を加藤哲夫さんのカタツムリ社から出した写真家や、「三角フラスコ」や「モナド企画」といった在仙の演劇人たち、あるいは後に「火星の庭」というブックカフェを経営することになる前野さん夫妻が居ました。こうした夏海さんの友人たちとの付き合いは今も続いており、僕の音楽活動にも少なからず関わりを持っています。夏海さんはそのように僕の視野を格段に広げてくれただけでなく、面白いと思うものや、反対に嫌悪する対象さえもほぼ一致する、じつに稀少な存在として現れたのです。僕と夏海さんは'96年の暮れにはお付き合いを始め、翌年の春頃には一緒に暮らし始め、さらに一年後の'98年3月に入籍しました。

yumbo結成へ

日々之泡には、僕が一緒に演奏していて楽しいと思える人が少なからず居ました。最初に名乗りを上げてくれたAVANTの稲毛千佳子さんや、そのAVANTの物静かな常連で、当時「ウロボロス」というバンドを率いていた大月俊二さんなどです。日々之泡の活動が停滞して自然消滅のような格好になったあと、僕はそういう人たちと改めて(集団ではなく)「バンド」を組んでみたいと考えるようになり、'97年に一度、稲毛さん、大月さんのほかに、当時「Licht Lab」というバンドを率いていたメタル・パーカッションの庄司真吾君や、「肉自動車」「マニラ帰り」などでギターを弾いていた梁瀬哲さんらを誘って、スタジオで即興のセッションを試みたことがあります。このセッションがすぐに何かに繋がることはありませんでしたが、フワフワと地に足がついていないような日々之泡のダラダラした即興よりも、選ばれたメンツによる緊張感のある演奏行為は、もう少し人と音楽をやれるかもしれないという淡い期待を僕に抱かせるには充分な手応えがありました。このセッションの事も忘れかけていた翌'98年の3月に、ブックカフェ「火星の庭」を開店する以前の前野久美子さんから、ライヴの出演依頼が来ました。詩人のナナオサカキさんのリーディング公演を企画したので、前座で何かやってもらえないかということだったので、それまで僕の中でぼんやりとした構想でしかなかった「バンド結成」を、具体的なものにする好機が巡ってきたと思いました。僕はさっそく稲毛さんと大月さんに連絡し、「バンドとして出演したいんだけど参加してもらえませんか」とお願いし、了承を得ることができました。メンバーが集まったからには、チラシに載せるバンド名を決めなければなりません。実は僕は、自分のバンドを組むなら名前は「明星(みょうじょう)」にしたい、と考えていました。明星は少年時代に鍵盤のコードを憶えるのに役立った雑誌のタイトルであり、流れるような日本的な語感も風流でいいんじゃないかと思ったのですが、この案は稲毛さんから「『明星のメンバーです』って人に言うのは恥ずかしいです」と却下されてしまいました。そこで代案として咄嗟に出たのが「yumbo(ユンボ)」という案です。この名前は夏海さんが思いついたバンド名で、僕と夏海さんが自宅で遊びで音楽を録音していたユニットの名前として候補に出ていたものでしたが、これが意外にメンバーの気に入るところとなり、「じゃあyumboにしましょう!」ということになってしまいました。そんなyumboの初ライヴは「カラーズ」という仙台市内にあったカフェで行われました。稲毛さんはフルートにサックスの吹き口をくっつけた自作楽器(彼女はこれを『大友(良英)フルート』と呼んでいました)、大月さんがトランペット、僕はTACOの後飯塚僚気取りで、ヴァイオリンをでたらめに弾きました。ドラマーが必要だったので、大月さんのバンドから井上英司さんに手伝ってもらいました。淡々とした、荒削りな即興でした。良く言えば「渋い」演奏でしたが、実際のところは、凡庸で、同じ場所をグルグル歩き回っているだけのような、暗く短調なものでした。

 《1998年3月1日、yumboの最初のライヴのチラシ》

この日のメインアクト、世界中を長年旅しながら詩を書き続けてきた、エネルギーの塊のようなナナオサカキさんと初めてお会いした時の事は忘れられません。僕が挨拶するなり「あなたは、何年の何月何日に生まれましたか?」と訊かれたので「1970年の11月9日です」と答えると、ナナオさんは数秒間押し黙ったあと、「その日、ぼくはアリゾナの砂漠のど真ん中に立っていました」と教えてくれました。「立っていました」という言葉が、妙に胸に刺さってきました。僕は、誰かに「あの日、自分はそこに立っていました」と言えるような生活を送ってきただろうか?と自問せずにはおれませんでした。ナナオさんは5年前に亡くなってしまいましたが、僕はyumboの最初の「対バン」がナナオサカキだったことを、今でも自慢に思っています。

yumboマンスリーと火星の庭

ナナオさんの前座で演奏する機会を得てyumboを始めたはいいものの、5月に2本のライヴを行った後は、ほとんど演奏の依頼もなく、開店休業の状態が続きました。季節も冬になり、「このままではせっかく結成したバンドも自然消滅してしまう」と思い悩んだ僕は、むしろyumboを「演奏せざるを得ない」ような状況に置くべきだと考え、公共の施設の安いスタジオを毎月押さえて、マンスリー・ギグを自主企画としてやってみたい、とメンバーに提案しました。いつまで続くかは分からないけれど、やれるところまでやってみよう、という考えで'98年11月に始めた、即興演奏の武者修行(あるいは単なる苦行)のようなこのマンスリーは、最終的に大月さんが脱退する'02年3月まで一回も休むことなく、vol.41まで続けました。

 《1999年4月17日、yumboマンスリーvol.6のチラシ(マンガ:菅野修)》

この3年半弱の間に起こった主な出来事を駆け足で振り返ると、まず'00年の8月から、マンスリーの会場を公共施設からブックカフェ「火星の庭」に移したことがあります。前野健一さん・久美子さん夫妻が東欧・欧州旅行での経験を経て開店したこのお店にはピアノが運び込まれ、場所を借りるのにいちいち書類の手続きが必要なそれまでのスタジオよりもずっとイージーに利用することができる(もちろん友人の店とは言っても料金は発生しますが)、僕らにとって最高の場所でした。僕は図に乗って、この火星の庭でyumbo以外にも自分のソロ・ライヴまでマンスリーで始めてしまいました('01年12月まで計15回)。'01年1月にはパーカッショニストでプレyumboとも言える例のセッションに参加していた庄司真吾君が半年ほど、一時的に加入しました。庄司君はノイバウテンが好きで、コンピュータの打ち込みにメタルパーカッションや生ドラムのフィジカルな演奏を乗せつつ、グラインダーを使ってステージ上で火花を散らしたりしていましたが、なぜかyumboに興味を持って入ってくれたのですが、彼には「自分の音楽/バンド」が先にありましたし、僕がクドクドと理屈をこねながら演奏について示唆することで毎回違ったことを少しずつ試みていた、カタツムリみたいな当時のyumboの中で、彼の演奏者としてのダイナミズムや速さは著しく損なわれ、ずいぶん窮屈そうに見えました。そんな風に思っていた頃、夏海さんが友人の写真展会場で山路知恵子さんと知り合いました。山路さんは当時写真を撮っていて、仙台市内で「異尺度シャワー」という、L判のカラー写真を横一列にズラッと展示した写真展を行っていました。地元の高校のブラスバンドでホルンを吹いていた経験のある夏海さんは、やはりブラスバンドでパーカッションをやっていたという山路さんと意気投合し、2人で「ドンスカポーポー楽団」なるバンドの結成を約束したということでした。僕はまず「異尺度シャワー」を観に行って、そのユニークな展示方法や、穏やかな狂気を感じられる独特のナイーブさに惹かれ、山路さんに興味を持ちました。初対面の時には、あまり深く考えずにyumboに誘ってしまい、「先に私とバンドをやることになっていたのに」と夏海さんに怒られましたが、ともかく山路さんは火星の庭にやって来て、試しに僕と大月さんと一緒に即興演奏をしました。たぶん、演奏を始めて3分も経たないうちに、僕は山路さんに入ってもらおうと決めていたように思います。彼女の演奏には12年後の現在も変わることなく、演奏を始めて3分もしないうちに「バンドに入ってもらいたい」と相手に思わせる親密さが込められています。

 《2001年 ライヴCD-R『北の女』(ジャケット画:澁谷夏海+渡辺作郎)》

即興から歌へ

yumboが41回目のマンスリー・ギグを行う頃に、4年間一緒にやってきた大月さんから「自分の音楽に専念したいのでyumboを抜けます」と切り出されました。その時はショックでしたが、よくよく考えると僕自身も、毎月のyumboの演奏がマンネリ化している気がしていました。山路さんの加入によって、やれる事の幅は広がりつつありましたが、それがどのような展開になるのかは、当時は僕にもつかめずにいたのです。しかし、その答えは僕自身からではなく、外側からやってきました。僕は相変わらず中古レコード屋で働いていたのですが、ある時、お客さんの若い女の子がレジにゲルニカのLP「改造への躍動」を持ってきて、「どういう音楽なのか聴いてみたいんですけど」と言われ、ハイハイと店内で試聴してもらう、という出来事がありました。彼女がレコードを買ったかどうかは憶えていませんが、この時に二言三言会話した時に「いい声だな」と思ったのは印象として残っており、次に彼女が来店した時に再び話していて、やっぱりいい声だと思い、こういう声の人に歌ってもらえるなら、即興をやめて歌をまた書いてみたいと僕は考えました。彼女は大野綾子さんといいました。話の流れで、「僕、yumboっていうバンドやってるんですけど、最近メンバーが辞めちゃって...大野さん、楽器か何かできませんか?」と切り出すと、「弾けませんけどギターは持ってます」と言うので、「このチャンスを逃してはならない!」とばかり、僕はいつになく積極性をフルに発揮して大野さんをyumboに誘いました。大野さんにはバンド経験というものがなく、よくよく話を聞くと音楽そのものもよくは知らないということでした。それでもライヴの録音をまとめた自主制作のCD-Rを渡して聴いてもらったうえで、自分でもいいなら...と、加入してくれることになりました。果たして、大野さんがギターで参加したyumbo(僕・稲毛さん・山路さん)の初練習の場が設けられましたが、これは予想以上に過酷な結果となり、大野さんをボーカリストにしたいという僕の下心を知らない稲毛さんには「なんであんな子を連れて来たんですか」と苦笑まじりで責められたりしたものですが、僕はyumboの演奏を即興オンリーのものから、よりコンポジションと呼べるものに、ジワジワと変化させていきました。そういう中で思い出したのが、日々之泡のもう一人の主要メンバーだった大津貞夫さんでした。大津さんならギターも普通に弾けるし、音楽の趣味も合うので、僕がこれからやろうとしてる事を理解してくれるに違いない!と思い立った僕は、さっそく大津さんに久しぶりに電話をして、「今はyumboというバンドをやっていて、これから曲をやっていこうと思うのでギターを弾いてくれませんか」と誘ってみたところ、面倒臭がるかと思いきや、大津さんは拍子抜けするほどあっさりと「いいですよ。どうせ暇なんで。ワッハッハ」と請け負ってくれました。大津さんが加わって雰囲気の明るくなったyumboのために、僕はせっせと曲を書き始めました。この時点ではまだ正式メンバーではありませんでしたが、夏海さんのホルンをフィーチャーする事も念頭に置いていたので、歌のメロディーと共にホルンのカウンターのメロディーも自然に出てくるようになっていきました。大野さんは僕の読み通り(ギタリストとしては最悪でしたが)素晴らしい歌声の持ち主でした。決して巧くはないし表現力や演技力も皆無に等しかったのですが、独特の柔らかな子供っぽい、それでいて無表情な彼女の声が僕の書いた歌詞とメロディーを歌うことで、聴いたことのないような化学変化が得られる、と感じました。このようにして、「黒い山小屋」「赤い車」「霊のように」「わたしはからっぽ」「九月の歌」「家」といった、最初の歌のレパートリーが出来ていきましたが、その過程で、もう一人のオリジナル・メンバーである稲毛さんは、音楽よりも競技麻雀の世界へと徐々にシフトしていき、新メンバーによる最初のライヴを'02年8月に火星の庭で行う頃には、静かにyumboから離れていっていました。

《2002年9月27日、仙台 火星の庭。右が山路、左が澁谷。(撮影:小野健宏)》

マジキック・レーベルと工藤冬里

大野さん同様、仕事場である中古レコード屋にお客さんとして現れた中平陽香さんも、ベースを持っていてトロンボーンもブラバンでやっていたということで10月に加入し、気がつくとyumboは5人編成になっていました。この時期に起きた、僕とyumboにとっての大きな出来事として、「マジキック・レーベル」や工藤冬里さんとの出会いがありました。工藤さんは10代の頃からの僕の音楽的なヒーローで、'00年に難波ベアーズで初めて実際にライヴを観たこともあり、僕はかつてないほど多大な影響を受けていました。'02年当時、ようやく我が家に導入したインターネットを使って最初にやった事は、工藤さんのホームページを探して、直接ファンとしてメールを送ることでした。工藤さんの音楽が大好きだ、ということを示す意外にこれといって目的も意味もない、一方的な行為でした。僕の記憶では、工藤さんはこの僕からの最初のメールに返信をくれなかったと思うのですが、反応は思わぬところから返ってきました。東京で「キヌタパン(現在の『sekifu』)」というバンドをやっていて、工藤さんのバンド「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」にも参加している、仙台出身の関雅晴さんという人物からのメールでした。「工藤冬里さんから、仙台といえばyumboというバンドがあるようだが何か知っているかと訊かれましたが、知らないけど興味があるのでCD-Rを買いたいのですが」という主旨だったと思います。この事をきっかけにして僕と関さんのメールでの交流が始まりました。互いのバンドのCD-Rを送り合って、互いに感想を言い合い、間もなく「何か一緒にやりましょう」というところまで話が進み、11月に火星の庭でイベントを行うことにしました。このイベントについての話し合いの途上で工藤冬里さんも「僕も仙台に行きたい」とのことでイベントに加わってもらうことになり、ついに僕は工藤さんとも出会うことになるのです。

 《2003年、kudo tori-kinutapan-yumboのCD-R『IGLOO3〜地続きの島を恐れるな』》

一方、この出来事とほぼ同時進行だったと思うのですが、僕はマヘルのCDを買ったりするために、マジキック・レーベルにもコンタクトを取っていました。バンド「テニスコーツ」として、あるいはマヘルのメンバーとして活動しているさやさん、植野隆司さんと、手紙やメールを通じてやりとりするなかで、関さん同様、ほぼ同年代ということもあり、徐々に親しくなっていったのだと思います。ある程度曲数のたまってきた、新編成のyumboの演奏の記録を編集したものを送ったところ、さやさんから「マジキックから出しませんか」という話がありました。これまでに、僕自身がチマチマと小規模にやっていた「イグルー」というレーベルから、即興のライヴを編集したCD-Rを2枚リリースしたことはあったものの、yumboの音楽をリリースしましょう、と外部から話が来たのはこれが初めてでしたし、ましてや憧れのマヘルに関わっているレーベルから出してもらえるとなれば、感激もひとしおでした。こうして振り返ってみると、この'02年というのはオリジナル・メンバー2人の脱退による暗いムードに始まり、新メンバー3人の加入と音楽的な方向転換、そして工藤さんやキヌタパンとの仙台でのイベント、マジキックからのリリースの決定に至るまで、yumbo史上最も波乱に富んだ年になりました。

アルバム「小さな穴」


 《2003年、CD『小さな穴』(ジャケット画:澁谷夏海)》

ファースト・アルバム「小さな穴」のレコーディングは、'02年の暮れから'03年にかけて、火星の庭や、僕の自宅にメンバーを集めて行いました。この頃は録音機材というとポータブルのMDしか持っていなかったので(今も似たようなものですが)、録音はすべてマイク1本だけのMD一発録りにするしか方法はありませんでした。管楽器やドラム、アンプを通した楽器など音量の大きい楽器ほどマイクから離れ、ヴォーカルの大野さんだけはマイクのすぐ近くに座って歌ってもらう、という配置が基本でした。要するに、録音したあとで各楽器の音のバランスをミキシングで調整することが出来ないため、その場で軍人将棋のように人間の位置を調整して、あらかじめ「ミキシング」をするしかありませんでした。その結果、ライヴ感はあるもののヴォーカルだけがデッドな音質という、不思議な疑似スタジオ音源が出来上がりました。'03年7月に発売されたこのアルバムには、僕がyumboのために書いたごく初期の主な曲が収録されましたが、特に「九月の歌」「家」の2曲は自分でも気に入っていて、メンバーが様変わりした現在でもたまにライヴで取り上げている、yumboの代表曲のような存在になりました。最初のCD発表後の大きな出来事としては、10月にマジキック・レーベルが主催した法政学館ホールでのイベント「マジキック祭り」への参加がありました。これはyumboとしては初の「ツアー」であり、仙台以外の観客の前で演奏する機会となりました。学館ホールの大きなステージはyumboには不釣り合いに思えましたが、macのスピーチ機能を駆使した工藤冬里さんの「司会」のもと、同じくマジキックと関わりながら活動していたユダヤジャズ、Bunさん、kkko、NSD、プカプカブライアンズなどと肩を並べることには大きな歓びを感じました。この、初の東京でのライヴから、それまではゲスト演奏者のような扱いだった夏海さんも正式にyumboのメンバーとなりました。

 《2013年8月16日代官山 晴れたら空で豆まいて(撮影:都築響一)》

また、翌年の春には、yumboの音楽的な方向転換に多大な貢献をしてくれた大津さんと中平さんが相次いで脱退し、その時期に知り合った朝倉美幸さん、渡邊哲雄さんという2人の若いメンバーが入れ替わりで加入しました。個人的にはこの時期に、10年ほど働いてきた中古レコード屋の経営難のために失業することになり、生活面での不安は大いにありましたが、不思議と音楽への意欲は途絶えることはありませんでした。これは、新編成となったyumboに創作意欲を刺激されたという事と、自分のバンドと並行して演奏に参加していたマヘル・シャラル・ハシュ・バズでの活動で受ける刺激が相俟って、ますます音楽に集中する環境が得られたという事もあると思います。

アルバム「明滅と反響」

'05年は、オーストラリアのレーベルChapter Musicによる日本のバンドのコンピレーションCD "Songs for Nao"への参加や、2日間で3本のライヴという強行軍を決行した10月の東京ツアーといった出来事がありましたが、'03年から書きためてライヴで演奏していた楽曲をまとめたセカンド・アルバム「明滅と反響」のレコーディングが完了し、'06年2月に再びマジキックから発売されたことが何よりも大きな出来事でした。演奏技術や録音方法は(MDからDATになっただけで)相変わらずでしたが、以前よりも様々なタイプの曲を書くようになっていたので、自分の節操の無さを面白がりながらも、これらの曲をどのようにまとめれば散漫にならずに済むだろうと悩んだものでした。結果、散漫さはなんとか回避できたかもしれませんが、当時のありったけの曲を詰め込んだせいで冗長で重い作品になってしまったことは否めませんでした。このアルバムでは、さやさんに協力してもらい、Peace Musicの中村宗一郎さんにマスタリングをお願いしました。僕はマスタリングという作業の意味をまるで知らなかったので、この時はさやさんと中村さんの耳と意見を全面的に信頼しつつお任せしましたが、実のところ、作業の進行について行くのがやっとという感じで、自分の意見やヴィジョンを的確に伝えられたかどうか、自信はありませんでした。僕が自信を持って意見が言えたのは曲間の秒数ぐらいのものでしたが、それもさやさんが「いや、あと0.5秒長くしましょう」などと修正をかけるので、「なるほど、そんなものかな」と、どぎまぎしながら受け入れていたものでした。

 《2006年、CD『明滅と反響』(ジャケット画:澁谷夏海)》

CDが発表されて随分時間が経ってから、マヘルで一緒に演奏する事の多かった大場俊明さんの家で「明滅と反響」を聴かせてもらったところ、僕の使っているショボいコンポとは格段に質の良い再生装置ということもあり、思っていた以上に張りと奥行きのある音に仕上げてもらっていたことが分かりました。このアルバムには、トータルな作品として聴いた場合にどうしても冗漫な印象を与えかねないような曲もいくつか含まれてはいましたが、個々の曲を取り出してみると、「強い風」「かものはし」「スズメバチ」「ケーキ」「間違いの実」など、今でも非常に気に入っている、僕にとっての「自信作」が多く収録されています。幸い、「小さな穴」よりもプレス枚数が多く、時間はかかりましたがちゃんと売れてくれたおかげで、より多くの人に聴いてもらえることができた作品だと思います。

ヴォーカリストの交代

「明滅と反響」発表後の'06年から'07年も、まともな仕事もしないまま音楽に明け暮れていました。マヘルでの2度の海外ツアー(アメリカ西海岸とイギリス/ヨーロッパ)と2枚のアルバム(『他の岬』『セ・ラ・デルニエール・シャンソン』)への参加や、'06年当時沖縄で活動していたバンド「ケイドロック」に招聘されてのyumboの沖縄ツアーといった出来事がありましたが、この時期の僕にとって大打撃となったのが、yumboからヴォーカルの大野さんが脱退した事でした。'07年2月の仙台でのライヴを準備している最中の、思いがけない大野さんからの申し出に、僕はしばし思考停止してしまうほどの衝撃を受けました。尤も、バンドのメンバーというのは加入したり脱退したりするものですし、変化を恐れていては何もできないのですが、大野さんの独特な歌声は、当時のyumboにとって、あるいはソングライターであることを自覚し始めていた僕にとって、必要不可欠なものに思えましたから、「バンドから大事な声が失われてしまう」という恐怖に直面し、僕は慄然としました。辞めていくメンバーにはそれぞれ事情というものがありますし、バンドを辞めることなく個々人の事情を解決してあげられるほどの度量の深さが僕にあるわけもなく、僕はただ静かに大野さんの申し出を受け入れるしかありませんでした。ここから'08年への一年間は、僕がメイン・ヴォーカルを取ることでいくつかのライヴをしのいでいきましたが、明らかに、「理想の声」を失った僕の創作意欲は減退していきました。それまでは曲を書く過程で大野さんの歌声や、他のメンバーの楽器の音が手に取るように頭の中でイメージできたのに、自分が歌うことになるというだけで途端にイメージがしぼんでしまい、思うように曲が書けなくなってしまいました。そんな状態が一年も続いて進退窮まっていた'08年の4月に、僕は昔から付き合いのあった仙台の劇団「三角フラスコ」の芝居に出演することになりました。芝居に出演といっても、僕には台詞はなく、登場人物が劇中で読む「父親の日記」をアコーディオンの独奏で表現するという、なかば幽霊のような役で、ただステージの片隅に佇んで楽器を弾いているだけなので、一般的に期待されるような俳優としてのスキルも求められませんし、良い気分転換になるのではないかと思ったのです。この「チヨコレイト」という公演の最中、劇場のバックヤードで煙草を吸って休んでいた時に、芝居に出演している女優さんと、スタッフとして手伝いに来ていた女の子がすぐ近くで話している声が聞こえてきました。若い女性としてはかなり低めの声で、微妙な艶のある、よく通る声でした。即座に僕は「面白い声だな〜」と思いました。これは滅多にある事ではないので、一緒に話していた女優さんが何処かへ行って、その独特な声の持ち主であるスタッフの子が一人になったところを見計らって(いや、見計らったわけではないんですが行きがかり上そのような状況になったのでした)、話しかけてみました。彼女は高柳あゆ子さんといって、学生演劇出身で舞台の音響を手掛けている人だということが分かりました。「チヨコレイト」の公演は高柳さんの「師匠」である本儀拓さん(CD『これが現実だ』の録音エンジニア)が担当していたので、【←本儀さんからご指摘いただきましたが、これは僕の記憶違いでした。お詫びのうえ訂正いたします。】この時、高柳さんは受付とか使い走りなどの手伝いで公演に参加していました。僕はいつもの悪い癖で、どうしてもこの場のこの機会を逃したら次は無いんじゃないかという思いに捕われてしまい、あろうことか、その場で「yumboで歌ってみる気はありませんか」と誘ってしまいました。そうすると驚いたことに、高柳さんはあっさりと「やってみたいですね〜」と言うのでした。

 《2013年8月16日代官山 晴れたら空で豆まいて(撮影:都築響一)》

アルバム「これが現実だ」

2人目のヴォーカリスト、高柳さんは、天からの突然の贈り物のようでした。彼女がバンドに加入した時、yumboには既に次のライヴとして、仙台のApple Storeでのインストアが決まっていたので、僕はこのライヴに向けて「ある日以降、その他」「何かが始まった」「みだれた絵」「あなたの時間」「空に住む」と、新曲を5曲用意しました。この一年の間にまともに書けた曲が3、4曲しかなかったことを考えると、異常ともいえる量産期の始まりでした。この年の10月には高柳さんをフィーチャーした初の東京ツアー(高円寺ペンギンハウス)がありましたが、このライヴで4年間一緒にやってきたギタリストの哲雄さんが脱退し、年末に仙台でテニスコーツと共演したライヴから、オリジナル・メンバーである大月さんが復帰するというメンバーチェンジがありました。気が付くと、yumboは結成からちょうど10年経っており、オンラインショップontonsonのレーベルから、10周年記念のアンソロジーCD「甘い塊」をリリースしてもらうという恩恵にも与りました。このCDの発売記念ライヴは翌'09年5月に、初台の東京オペラシティ内にある近江楽堂で行いましたが、これは東京における初の(そして今のところ唯一の)ワンマン・ライヴです。

 《2007年、アンソロジーCD『甘い塊』(ジャケット画:小岩朝土)》

この間にアルバム用の楽曲がたまってきていたので、サード・アルバム「これが現実だ」のレコーディングを4月から開始しましたが、メンバーのスケジュールの調整が難航したり、初めてのHD録音ということもあり、この慎重な作業は12月まで終わりませんでした。録音する曲は最初の5曲に加えて、「サーフィン」「さみしい」「これが現実だ」といった自信作があり、作業もそろそろ終わろうかという頃に「来たれ、死よ」という、自分としてはベストと考えている曲が書けたりもして、充実した作業となりました。「小さな穴」と「明滅と反響」を世に出してくれたマジキック・レーベルは、この時期にはレーベル・オーナーであるテニスコーツの活動が忙しくなっていたこともあり、なんだか「次のも出してもらえませんか」と頼むのが図々しい気がして、肝心の「どこから発売してもらうか」が決まらないまま作業を進めていたのですが、ここで救世主として登場したのが、オリンピアの「K」レーベルの日本盤を多数リリースし、その流れで僕も録音に参加したマヘルの2枚のアルバムをリリースしたことで知り合いになっていた、7epレーベルでした。レーベル・オーナーの斉藤さんが「yumboは新譜出さないんですか」と言うので、「作ってるんですけど、出すアテが無くて」と、わざと哀れさを漂わせながら話したら、その場で「うちなんか、どうですか」と言ってくれたのです。こうして振り返ってみると、私生活では色々な事をこなしたり決定するのにいつまでもグズグズするのが常でしたが、ことyumboの事となると、「その場で即座に決まる」という事が多かったような気がします。つくづく、yumboは沢山の人に助けられながらやってきた、恵まれたバンドなんじゃないかと思います。CD「これが現実だ」はレコーディング同様、慎重かつ執拗なミックス、マスタリング(この時は僕もそれなりに意見が言えたと思います)作業を経て、'11年の1月に無事に発売されました。

 《2009年、『これが現実だ』録音作業。左が山路、右はエンジニアの本儀拓氏(撮影:澁谷)》
 《2011年、CD『これが現実だ』(ジャケット画:澁谷夏海)》

震災と喫茶ホルン

'10年の暮れから'11年にかけては、劇団・三角フラスコとyumboが一つの物語の中で共演する試みとして「これが現実だ」という芝居が作られ、大阪と仙台で公演を行いました。これは演劇の中に幽霊のような、この世の者ではないような存在としてyumboが登場して、舞台上で展開する物語と関連があるようなないような、曖昧な関係を保ちながら芝居と演奏が共存する、不思議な作品でした。この公演に関わっていた二ヶ月ほどの間、僕と夏海さんの生活は劇的な変化の渦中にありました。仙台市内の雑居ビルの一室を借りて喫茶店を経営する決心をし、その開店準備を公演と並行して行っていたのです。僕は2年ほど働いていた派遣の仕事を辞め、店で出す珈琲を入れたり、カレーを作る練習に専念しました。関雅晴さんに教えてもらった南インドカレーは趣味的に何年も前から作っていましたが、まさかそれを商売にするとは自分でも思っていませんでした。「喫茶ホルン」は'11年の3月1日にオープンしましたが、ご存知のように、その10日後には、あの地震が起こってしまいました。

 《2011年、喫茶ホルン》

自宅から運び込んだ大事な本や、苦心して買い集めたカップやグラス、工藤冬里さんが焼いて贈ってくれた焼き物が、あっけなく床に散乱していく大混乱の時間があり、不気味な大雪のなか、自宅の様子を見に2人で自転車に乗った時間があり、無惨な状況に変わり果てた自宅の中で呆然とする時間がありました。その夜には、一時的に避難した近くの高校の体育館でつけっぱなしになっていたラジオから、夏海さんの故郷である志津川が「津波で壊滅した」というニュースが流れていました。携帯はほとんど使い物になりませんでしたが、その夜は唯一、東京から親友(と僕は思っている)関雅晴さんがかけてくれた電話だけが奇跡的につながり、僕らを励ましてくれました。地震発生から一ヶ月ぐらいは、自宅で心細く暮らすよりは安心できるということで、火星の庭で何人かで寝食を共にする、いわゆる「避難生活」を送りました。この中には僕と夏海さんのほかにもyumboの朝倉さんが居たので、火星の庭の前野健一さんの発案で、この避難所で演奏したものを録画し、YouTubeで配信しようということになりました。予定していた次のライヴのために「鬼火」という曲を震災の前に書いてあったので、僕と夏海さんと朝倉さん、それとskypeで兵庫から参加した山路さんや、たまたま顔を出していた三角フラスコの演出家で劇作家の生田恵さんとで演奏し、健一さんに撮影してもらいました。音響を本儀さんに手掛けてもらったので、非常時とは言ってもかなり本格的な環境が整えられたと思います。このYouTube配信のための演奏は3月20日と27日に行いましたが、2回目に行った時には高柳さんと大月さんも参加することが出来ることが分かっていたので、1回目の時はやや消極的な気分でいた僕も徐々にやる気が出てきて、「センチメンタル・ジャーニー」「人々の傘」を書きました。これは、周囲に他人が居る状況で曲を書いた、初めての経験でした。

 《2011年3月27日、仙台 火星の庭でのYouTube用公開録画(撮影:前野健一)》

その後、喫茶ホルンの営業はどうにか復帰し、yumboとしても、仙台の勾当台公園での無料イベントに出演したり、高円寺へツアーに出かけたり、ARABAKI ROCK FEST.に出演したりして、徐々に平常運転に戻っていきました。7月の高円寺でのライヴを最後に、「明滅と反響」と「これが現実だ」を一緒に作ったギタリストの朝倉さんが脱退しましたが、11月には東京在住の芦田勇人君が加入してくれることになりました。芦田君はギターだけでなくトランペットやユーフォニウムなどの管楽器もこなせるので、よりアレンジの幅を広げることが可能になりました。翌'12年には芦田君を加えた新編成で、震災で先延ばしになっていた「これが現実だ」の発売記念ライヴを東京/名古屋/京都で行ったり、'11年のクリスマスに行ったライヴ映像が使用された、岩淵弘樹監督のドキュメンタリー映画「サンタクロースをつかまえて」が東京国際映画祭で公開されたりといった出来事がありました。

2013年現在

'13年2月に仙台で行われたイベント「おとのわ」では、不登校だった中学校時代を支えてくれた友部正人さんと共演することができました。このライヴを最後に、'08年に再加入していた大月さんが「再び脱退」ということになりました。大月さんとは日々之泡からの付き合いなので、もう15年来の友人ということになりますが、その間、yumboの内外で、何かにつけ助けてきてもらいました。大月さんが去った後の8月、仙台で「ヨーグルトきの子」というバンドを率いていて、以前から付き合いのあった皆木大知君がギタリスト/ベーシストとして加入してくれました。皆木君を加えた最初のライヴは、代官山のライヴハウス「晴れたら空で豆まいて」の七周年記念イベントでした。メンバー全員で前日の夜に火星の庭で練習し、翌日、長年の友人でyumboの英語詞の翻訳もしてくれている戸田君の運転する、冷房のききにくいワゴン車で東京に到着し、楽器を抱えてホールへ入って行くと、この日の対バンのパスカルズが、僕の大好きな「6月の雨の夜、チルチルミチルは」をリハーサルで演奏していました。僕らのサウンドチェックが終わったあと、都築さんに数ヶ月振りにお会いしましたね。あのとき僕は、都築さんはちょっと観に行ってみるか、ぐらいの事でいらっしゃったのだと思っていたのですが(実際その通りかもしれませんが)、思いのほか都築さんがyumboの成り立ちの事や、yumbo以前の活動についてあれこれ訊かれたので、「あれ?これは取材なのかな?何なのかな?」と戸惑いつつ、でも都築さんにあれこれ質問されるのは嬉しいな...などと、面映いような、誇らしいような気持ちで、僕の人生の大部分を占めているバンド、yumboの事を話していたのでした。

2013年8月31日 澁谷浩次




《2013年8月16日代官山 晴れたら空で豆まいて(撮影:都築響一)》

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