2010年11月6日土曜日

長文は書かないと決めていたのに長文になってしまった

友部正人「6月の雨の夜、チルチルミチルは」のCDを中古で購入した。
この作品は中学の頃、兄の同級生の祐子さんという人がカセットテープにダビングしてくれて、繰り返し愛聴していたものだが、そのテープがあるせいか、ずっとレコードやCDを買っていなかった。店頭でジャケットを見たら胸がざわついて、買わずにはおれなかった。最近はこんな感じで、むかし聴いてずっと離れていた音楽に再会することが多い。

表題曲の「6月の雨の夜、チルチルミチルは」は、中学生の頭ではなかなか理解しづらい曲だった。いま聴いても、とても不思議な曲だと思う。歌の主人公である「僕」は、彼が「チルチルミチル」と呼ぶカップルに歌を歌って聴かせているので、友部自身を反映しているように思える。「チルチル」はどうやら主人公と仲が良いらしいが、6月の雨の夜に、彼は「ミチル」を連れて「死の国」へ旅立ち、主人公が朝に独りきり残される情景がサビで繰り返し強調される。女を連れて旅立ってゆく古い友人と過ごす、最後の夜を歌ったものであるらしいことぐらいは、子供の僕にも理解できた。チルチルとミチルは恐らく、これから死にに行くのだろう。それは主人公が後半のヴァースで『もしも死にに行く人になら いい思い出だけにはなりたくはない』と歌っていることから容易に想像できる。
チルチルには2人の子供が居るらしいが、それがミチルとの間に出来た子供なのかは不明である。たぶん違うだろう。しかし「4人が作る沈黙」と歌われているが、これはなぜ「4人」なんだろうか。主人公とチルチルとミチルとで、3人ではないのか。それとも、子供たちはやっぱりチルチルミチル夫妻の子供で、4人というのは主人公からみて、チルチル一家という勘定なのか。だとするとこの歌の不思議さは一気に氷解してしまう。単に一家心中する友人家族を見送る歌にしかならないからだ。そういうわけで僕は、あとの1人は主人公の奥さんなのだと、勝手に決めてしまった。
何となく僕は、チルチルミチルは死なないだろう、という気がするし、子供もミチルとの子ではない、即ちチルチルは家庭を捨てた男なのだろう、という気がする。どちらかというとそう思いたい。そんな人間を最後に見送ってくれるのは主人公だけだが、その主人公でさえもがチルチルの行く末を「死の国」と冷たく評しているのだ、と思いたい。これがもしそういう歌でないのなら、アルバムのラストを飾る母子家庭の歌「愛について」との対応関係が崩れてしまうし。

改めてブログに書くような事ではないけど、友部正人は天才だと思う。
入ってくる人と出る人と 喫茶店の入口は
ただ外と中とを分けるだけじゃなく
男の現在と過去とを分けている
などと歌われると、僕などはもうこれだけで目頭が熱くなってしまう。

その当事者にしか分からない情熱というものがあると思うが、友部は大体においてそういう情熱を歌っているように思う。その情熱の度合いが強過ぎて、歌詞がどんなに曖昧だったりシュールだったりしても、被膜を突き破って差し出されるものがある。昨夜みたチャールズ・ブロンソンの「狼よさらば」もそういう話だった。「タクシードライバー」や「荒野のストレンジャー」もそうだが、70年代のアメリカにはこういう映画が多い。ごく客観的に観ればブロンソンもデ・ニーロもクリントも怪しげな殺人鬼だが、その内側に、簡単には理解され得ない不思議な情熱を隠し持っている。その行き場のない孤独感をいかに映画的に描写して観客に差し出すかが醍醐味なわけだが、「狼よさらば」ではとりわけ、ハービー・ハンコックの音楽が秀逸だった。殺人(制裁)衝動に駆られて夜の街を彷徨するブロンソンの姿が映し出される場面...普通なら緊迫した、スリリングな音楽を合わせるべき場面だが、ハンコックの音楽は妙に弛緩した、不調和な、「なんでこの画面にこの音楽が」と笑ってしまうようなものだったりする。そこへ意識が行った途端に、ブロンソンの行動が単なる、家族を嬲りものにされた男の復讐劇とはまた違った、なしくずし的な、極めておかしな行動であるように思えてくる。なにか見てはいけないものを見ているような、主人公を応援していいものかどうか躊躇してしまうような空気になってくる。その感覚はやがて、ラストショットのブロンソンの笑顔に着地する。あの笑顔はもう、狂気以外の何物でもない。

追記:どうやら、「6月の雨の夜、チルチルミチルは」という歌は実際にあった出来事を元にして作られたものらしい。事情を知らずにあれこれ想像を巡らすほうが幸せなのかもしれないが、折をみて祐子さんにでも訊いてみよう。

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