2010年11月26日金曜日

コーエン兄弟コンプリート

コーエン兄弟祭りもついに最後の1本となった「ディボース・ショウ」を観た。これで、まだ日本公開されていない新作を除けば、作品をすべて観たことになる。今年はイーストウッド作品も全て制覇したので、なかなかの達成感である。「ディボース・ショウ」はネットで見る限りではファンの人気が低い作品で、ジョージ・クルーニーとキャサリン・ゼタ=ジョーンズといういかにもハリウッド的なスター同士をキャスティングしている点も「らしくない」感じが漂うし、確かにコーエン兄弟としては異色な、きちんと落としどころのある現代風スクリューボール・コメディである。実際のところあまり期待せずに見たが、より「コーエン兄弟らしい」と言われている「オー・ブラザー!」(どうも僕はこの作品を基準にする癖があるみたいだ)などよりも、ずっと出来はいいと思った。男女の駆け引きというプロットから無駄な脇道に逸れることなく流れるように見せる手際がいいし、クルーニーの過剰演技も本作では生きていると思う。後世に語り継がれるような映画でないことは間違いないが、少なくとも失敗作ではない。全作品を観た結果、僕のお気に入りのコーエン作品は「赤ちゃん泥棒」「ミラーズ・クロッシング」「ファーゴ」「バーバー」「ノー・カントリー」「バーン・アフター・リーディング」ということになる。

「グロリア」を観てしまったがために、今度はカサヴェテス熱が始まっているのだが、嘆かわしいことに、TSUTAYAには彼の作品はほとんど置いていない。「アメリカの影」も「こわれゆく女」も「ミニー&モスコウィッツ」も「ラヴ・ストリーム」も借りることができないのだ。これは誇張でも何でもなく、真に驚くべき事だと思う。仙台のような街の駅前のTSUTAYAで借りることができるカサヴェテス作品が「グロリア」と「ビッグ・トラブル」だけとは! 差し当たって、家にある「ジョン・カサヴェテスは語る」でも読んで気を鎮めることにする。パラパラと頁をめくっていると目に飛び込んでくるスチール写真が、どれも激しくカッコイイ。文字通り、血が騒ぐ。

yumboのHPを見たニューヨークの16才の男の子が、yumboの作品を通販してほしいとメールをくれた。ネットの自動翻訳でHPを見てくれているという。なぜ彼のような人が日本の、それもほとんど無名に近い僕らの事を好いてくれているのか不思議でならないが、よく考えたら僕も、1981年に素晴らしいシングルを1枚だけ出したサンタ・クルーズのPeer Pressureという無名バンド(彼女たちの事はポスト・パンク博士のキャルヴィン・ジョンソンさえ知らなかった。つまりyumboよりも無名なのだ)のファンだったりするわけだから、そういう事は充分にあり得るのか、と思う。

2010年11月23日火曜日

プレビュー終了


10-BOXでのプレビュー公演当日はよく晴れて暖かい日となった。
ああいった会場で人に会うと、いろいろな事を思い出す。
お客さんの中に次郎さんが居て驚いた。yumboの、確か3回目のライヴにゲストで出て頂いて、バカボンパパみたいな扮装でブレヒトの詩を朗読してもらったのだ。稲毛さんもチャイナドレスでキメキメのメイクで朗読をし、演奏は僕と大月さんと庄司君で即興を演った。即興と言っても、何回か集まって詩に合わせた演奏の大筋は決めていたと思う。なぜブレヒトだったのかは全く思い出せない。憶えているのは、詩を朗読してもらうのに「とにかく声のいい人」を探していて、「次郎さんがいい」と人に勧められるままオファーをしたのだ。いま考えると冷や汗ものだが、次郎さんは快く参加してくれて、舞台に関して(音楽に関しても、だったが)ど素人の我々の出し物にプロの技を提供してくれたのだった。
次郎さんに不承不承で「その節はとんだご迷惑を...」と挨拶すると、「俺もアレが何だったのか分からなくてさ〜」と笑って許して下さったのでホッとした。

演劇に関わるたびに圧倒されるのは、仕込みとバラシである。今回のプレビューではyumboは楽をさせて頂いて、仕込みにはほとんど参加しなかったのだが、バラシは出来る範囲(相当狭いけど)で手伝わせてもらった。吸音や遮光のために張り巡らされた黒幕や、それを吊るバトン、夥しい照明、スピーカーなどの音響機材、数え切れない量の各種ケーブル、椅子、箱馬、平台...。すべてが適切な位置に収まっていて、ひとつの世界を作り上げる。当然、バラシた後は然るべき場所に元通り格納される。その数量と手間、一つ一つの物の存在理由に圧倒される。一見つまらない、ただの黒い紐などにも、立派な存在理由があって、決して失われてはならないし、軽視される事がない。ふだん自分が居る音楽の世界のいいかげんさをこよなく愛してはいるけど、芝居の世界のあの厳密さ、精密さには、より敬意を払われるべきだと思う。

本番の後はクタクタになって、メンバーと紅虎に行って、激辛の汁なし担々麺を食べ、家に帰ってコーエン兄弟の「バーバー」を観た。主演のビリー・ボブ・ソーントンは絶対に前に観た俳優だとしか思えないが、実はそうでもなかった。「バーバー」はソーントンをはじめ、妻役のマクドーマンド以下、キャストが例に漏れず素晴らしい。演出も抑えめで、音楽は静かなピアノソナタしか使っていない。物語は悲痛で滑稽だが、決して脇道に逸れることがないので最後まで集中して観ていられる。凄腕弁護士の不確定性原理の話や、ピアノ少女の誘惑のくだり、40年代のヘアスタイルなど、意表を突いた見所が随所にある傑作であった。

今日は一転して雨降りの夜だった。疲れが体の中にたまって出ていかない感じがする。
何気なく借りてきた、カサヴェテスの「グロリア」を観る。なぜこの映画をこれまで観ていなかったのか不思議でならないが、とにかくこれまで何度も借りようと思って、その都度「今日はいいか」と見送っていた映画である。案の定というか、当然のように面白かった。完璧な映画だと言って差し支えない。ジーナ・ローランズは筆舌に尽くし難いほど素晴らしい女優だと思う。彼女を、その一挙手一投足を常に目で追っていたいという欲求のためにラストシーンまで引っ張られた作品だった。

2010年11月20日土曜日

頼まれて嬉しい

小屋入りしてからの作業が進んでいる。芝居の場合は音楽の現場と違って、みんな積極的に時間を守ろうとするし、それぞれの役割もはっきりしている し、交わされるコミュニケーションも密である。10〜20代の頃だったら間違いなく逃げ出したくなったであろう場所なわけだが、今は不思議とそんな気持ち にはならない。きっと、自分の役割が与えられたからだと思う。むかしは「そこのギアを軽油で洗っておいて」とか「倉庫からチャプスイを2ケース積んでおい て」とか、その都度言われて動くというのが僕の役割だったし、誰も僕に「あなたの曲をシーン8の暗転の後で演奏してください」などとは頼まなかった。そん な価値が無かったからだと思うし、単にそういう場所を目指さなかった(目指せなかった)というだけの事かもしれない。じゃあ今そうやって生田ちゃんから頼 まれて飛び上がるほど嬉しいかと言われると、夢中で一緒にものを作っているのだから改めて歓んでいる暇も無いのだが、少なくとも「頼まれる事の価値」には 気付いている。 

昨日の稽古は19時集合だったので、日中の空いた時間に松栄ホールのレコフェアへ行く。郵便屋さんと久々に顔を合わせて、 「あーお久しぶりです」と言ったら、「ん〜何だって?」と訊き返される。すっかり耳が遠くなってしまったそうだ。「家にあるレコード全部あげるよ...ま あ、全部反ってるけどね」などと言ったりするのは相変わらずだった。ここ数年はレコードを買うのは主にネットになってしまって、レコフェアやレコード屋で 探していたレコードに出会うという快感から遠く離れてしまった。甚だ不本意だけど、行っても買うものがないのだからしょうがない。ポートレイ・ヘッズがか げろうから出したソノシートとか、クレイオラがArt & Languageの展覧会のパンフに付けたシングルとか、そういうものは今はレコード屋から消えてしまった。1時間半近く会場内をうろうろした結果、購入 したのは「アマルガム」というピナコテカの通信紙(恐らく最終号)だけだった。オフセット12Pのささやかな冊子だが、ピナコテカ末期のタコの回収騒動の 事とか、「なまこじょしこおせえ」の解説とか、超過のスタジオ代を払おうとしないグランギニヨルへの呪詛などが綴られている。巻末には次回作として予定さ れていたA-MUSIKのLP(結局バルコニーから出た)の事とか、構想されていたインディペンデント・ジャーナルへの投稿の呼びかけなどが掲載されてお り、この当時の佐藤隆史氏の想いが詰まっている。佐藤氏は、当初はレコード制作の「作業の中に自分の自分らしい役割を見出していた」、しかし「しくじって しまった」と書いている。だから、次はしくじらないように、自分が主体となって「わたしのかわいいレコード」を出していきたいと書いている。「アマルガ ム」を読んでから、棚から「グランギニヨル」のLPを引っ張り出してみたら、ジャケに生々しい糊付の跡があった。きっと、佐藤氏が奥様と、自分の役割とい うものについて想いを馳せながら、せっせと手作業したのだろう。

コーエン兄弟祭りも佳境に入ってきて、先日は「レディ・キ ラーズ」を観た。監督が初めて兄弟名義になった作品で、トム・ハンクスが窃盗団の首領を胡散臭く演じている。スルメみたいな映画だった「真夜中のサバナ」 で過剰なキャラを演じていたイルマ・P・ホールがいい感じで立ち回っている。しかし最高なのはダイアン・デラノという女優の演じた「マウンテン・ガール」 か。窃盗団がカモフラージュのために「中世の音楽を合奏するグループ」のフリをするのだが、使用している古楽器がどれも現実離れしていてオカシイ。今では その楽器を使用するための楽曲さえも残っていないグロテスクな弦楽器があったりする。物語は他の作品同様、バタバタっと事が起こって、結局何も生み出さな いまま予想外の方向へ収斂してガクッと終わるというパターンだが、「オー・ブラザー!」に並んで娯楽性は比較的強いかもしれない。

2010年11月18日木曜日

血の轍その他

猫2匹が灯油ストーブの前でゴロゴロと熟睡する夜、時は来た!という気持ちで「血の轍」を聴く。世の中にこういう美しい音楽があるというだけで、もう全てどうでも良くなるな。ならないか。

ヴェンダースの「アメリカ、家族のいる風景」を観る。ずっと前に飛行機で観たものの英語だったので、いつか字幕でちゃんと観ようと思っていた映画だ。しかし、借りてきたDVDが家でうまく再生出来なくて、結果的に家から行ける範囲にある3軒のTSUTAYAから借りたが、どれも再生できなかった。どうやら家のプレイヤーやMacとの相性の問題だったらしく、後半の40分ぐらいをネットカフェで観て感動に打ち震えていた。無論「パリ、テキサス」を越えることなど到底出来ないし、ヴェンダースもシェパードもそうした重責から逃れるための20年を要したのだと思う。それでこれは重くもなく軽くもなく、無重力のような状態の物語となった。失踪した主人公を執拗に追うティム・ロスが、ジョン・ケイルみたいでカッコイイ。サム・シェパードは年を取って、阿部さんみたいな顔になった。


知惠子さんから、冬の個展のDMが届く。大阪公演が終わったら観に行ける日程なので、開催を知った時から大喜びしていた。知惠子さんの作品は20年以上前から(『ストリート・キングダム』裏表紙でハルナさんが被っている魚の頭から!)見ているけど、作品の動物も彼女と共に年を取っているように見える。新しい作品なのに不思議だ。

ナツがヤフオクで落とした大道あやの自伝「へくそ花も花ざかり」限定版も届いた。さすが福音館、大道ファンの心理をよく分かっている装幀に舌を巻く。文庫版で割愛されたカラー画集は筆舌に尽くし難い素晴らしさである。つくづく、先日落札しそこねた「しゃものピョートル」が惜しまれる!

来年1月はyumboが出るけど、ムーンライダーズも注目に価するCDが2点出る。一つはアーカイブス・シリーズで「青空百景」期のライヴ盤。テープのパフォーマンスなども完全収録したもののようだ。これ、聴きたかったんだよな〜。あと、いつもなら完全無視するクラウンのベスト盤(なんと11作目)だが、今度のはなかなか内容が良さそうだ。「ジェラシー」「ヴィデオ・ボーイ」「ヴァージニティ」「地下水道」などのシングルバージョンや、初出のスタジオライヴなども収録されて、いつになく大サービスである。ただ、ここまでやるなら「Beep Beep Be オーライ」もシングルバージョンで入れて欲しかった(少なくともアナウンスされている曲目には注記が無いので、期待してもいいのかもしれないが...)。

BGMが、ディランからYesの"Heart of Sunrise"に変わっていた。明日は10-BOXで一日中、21日のプレビュー公演の準備だ。このテンションで頑張ろう。

2010年11月16日火曜日

Oさん

今日はOさんが体調を崩して早退した。
Oさんは今の職場で、僕が親しく話をさせてもらえる数少ない人の一人で、あの職場に居る間は本当の意味で随分、お世話になった。日がな「飲み」や「パチンコ」や「ケータイゲーム」の話題が飛び交う職場で僕がここまで過ごしていられたのは、Oさんがあるレベルに達した音楽バカだからで、Oさんはそれに輪をかけて素晴らしい人柄であるからに他ならない。
素敵な人というのは、いつ何処に潜んでいるか分からない。そういう人と知り合えれば、多少の苦難や屈辱にも耐えることができる。ちっぽけな世界だけど、多少でもそこで生きる意味を見出すことができる。しかもOさんはその世界の小ささに、決して負けていない。

早健が送ってくれた最近の彼の作品を、iPodに入れて通勤時に聴く。銀杏くさい夜道で彼の音を聴いていると、彼のハンサムな容姿が目に浮かぶ。ずっと前に彼から、いまエンケンのローディーをやっていると聞いた時はマンガみたいに出来過ぎていると思ったが、彼のような人が実に彼らしい音楽をやっているのも、まったく出来過ぎた事だと思ったりして、妙な薄笑いを浮かべてしまう。「蝉」という歌では(僕が知る範囲では)珍しい、彼の裏声を一瞬聴くことができる。あわてふためいたような歌唱パフォーマンスのなかのアクシデントのようにも聴こえる一瞬の裏声は、とてもセクシーだ。彼は自らのハンサムさ故に、彼の音楽や歌声の細部をベーコンの絵のように歪めたり汚したりしようと奮闘する。アメリカのルーツミュージックを土台としながらも、The浜田山的なやるせないオシャレさに寄っていくのもまた、東北人の血を感じさせてくれる。

しかし寝る前には、「南蛮渡来」のCDをかけて、まだ返さないでいる常盤新平の本を読んでいたりする。江戸アケミは本当に凄い詩人だった。アケミ以外の者たちがアケミに呼応して「ぼくたち」などと声を合わせて歌う時など、背筋がゾッとする。

一昨日の夜はまたしてもコーエン兄弟の「ビッグ・リボウスキ」を観る。ジェフ・ブリッジスはあまり熱心に観ていない役者だけど、この作品は実にいい。「デュード」が登場する最初のカットを観た段階で、無条件に親近感をおぼえさせる訴求力があった。イーストウッドとの共演作「サンダーボルト」は観ないと...と思う。また、この映画でテーマ曲のように扱われているのがディランのThe Man In Meというのも微笑ましい。思わずこれもiPodに入れて聴きまくっている。「ビッグ・リボウスキ」は「ファーゴ」や「ノー・カントリー」ほどではないけど、「オー・ブラザー!」に比べれば様々な目論見が成功している作品だと思う。ジュリアン・ムーアとかフィリップ・シーモア・ホフマンなどP.T.A.組の役者が顔を出しているのも嬉しかった。

2010年11月13日土曜日

3枚目

Aさんとマンジュシャンでラーメンを食べる。Aさんお勧めの店が準備中だったため、結局僕のお勧めに行くことになったのだ。思い出話に花が咲く。二年弱というのはそれなりにヴォリュームがあるものだな、と思う。Aさんは美女と野獣の野獣みたいな風貌だが、とてもモテる。

7epのサイトで試聴も出来るようになり、いよいよ出る雰囲気が高まってきた。ここに至るまで、いろいろメチャクチャだったなあ。でも無事に出せそうなので、本当に良かった。

3rdアルバムというのは、バンドにとって非常に重要なものだ。1stにはそのバンドの持つ要素が全て顕われている、とはよく言われる事だが、今思えば本当にそうだなと思う。XTCなんかは例外だと思うけど。で、2ndでいろいろ新しい事をやって「おお!」と思わせて、3rdで同じ事を繰り返すか、おかしな方向へ走って失敗する事が多い。または、3rdでやりたい事をやり切ってバンドの世界が完結してしまう事もよくある。新しいものを提示しつつも、次を予感させるものでなければならない。このアルバムがそうなっているかは聴く人次第という気もするけど、ここからyumboを聴き始める人はとても多いだろうから、別に気にする必要もないのかな...。ただ、1stから順に聴いている人にどう受け止めてもらえるかは、少し気になる。

図書館の貸し出し期限はあっという間だ。特に、僕のような怠惰な読書家にとっては。ついこのまえ借りたばかりの常盤新平「東京の小さな喫茶店」の期限が、もう来てしまった。まだ半分も読んでいないので、またいずれ借りねばならない。全部読み終わるには、あと二ヶ月はかかるな。

コーエン兄弟「オー・ブラザー!」を観る。考えれば考えるほど名作だった「ファーゴ」の次の次の作品ということで期待し過ぎたのか、あれほどの起爆力は無かった。というか、ずいぶん前に深夜のテレビか何かで観たのに、すっかり忘れていた。尤も、とても手が込んでいるし、Tボーン・バーネットの音楽は抜群に良いし、どんでん返しのオチも素敵だったので、決して駄作ではないけれど。ものすごく苦労して撮っただろうに、映画ファンなんて勝手なものだ。もう1枚借りた「ビッグ・リボウスキ」はどうかなあ。

2010年11月11日木曜日

ノーム

以前日記を書いていた時は、出来るだけその日に書くようにしていた。どんな瑣末な事もメモをしておいて、偏執的に書き綴っていたわけだが、最終的には自分で決めた「その日にその日の事を可能な限り書く」という縛りが重荷となって、書くのが億劫になってやめてしまったので、今度のはもっとゆるやかにしようと思っている。

というわけで最近の出来事。

火曜の夜に10-Boxで芝居の稽古に入る。フラスコとyumbo合同の稽古はこれで3回目だが、我々が呑気に過ごしている間にも役者さんたちは毎日のように集まっているわけで、前回よりもずっと演技や演出が深くなっている。台詞の言い方だったり、人物の位置関係をちょっと変えたりするだけでも全然違う話になってくるものだな、と思う。稽古場で久々に外崎さんに会った。白鳥さんとの「キリギリス」の時もスタッフで入っていたので、それ以来だろうか。いつ会ってもお互い別世界の人という感じで、相変わらず会話も弾まないけど、僕は外崎さんが好きで、その場に居るだけで楽しく感じる。

稽古のあと、コーエン兄弟の'07年作「ノー・カントリー」を観る。「バーン・アフター・リーディング」の前作にあたるわけだが、こちらは一転してシリアスな演出で占められている。家畜用のエアガンを携えてペッタリした顔で現れる「アントン・シガー」は、いままで観た悪役の中でも最悪の部類に入る恐ろしさだ。映画の中に正しい者はほとんど出て来ないし、善人は結局、何も解決出来ずに終わる。この、結局何もしないトミー・リー・ジョーンズの保安官の人物像は、一種の発明だと思う。ほとんど役に立たないのに、不思議と物語の中心というか核の部分にブレずに存在しているのが凄い。「パーフェクト・ワールド」のイーストウッド(大好きだけど)とは大違いだ。

翌日(昨日の夜)、同じくコーエン兄弟の'96年作「ファーゴ」を観る。これもまた大傑作の犯罪もの。この頃はまだジョエル・コーエンが単独で監督していたわけだが、映像の気合いの入り具合はこの時から既に尋常ではなかった。諸悪の根源であるメチャクチャな男・ジェリーを「マグノリア」の元クイズ少年役だったウィリアム・H・メイシーが、極めて魅力的な女保安官を「バーン・アフター・リーディング」で観たばかりのフランシス・マクドーマンドが演じている。 後で知ったのだが、マクドーマンドはジョエル・コーエンの奥さんらしい。登場するキャラクターはどれも素晴らしいが、僕はとりわけマージの旦那の「ノーム」が好きだった。普通なら、こういう映画で簡単に殺される奴の役にキャスティングされそうな役者(ジョン・キャロル・リンチ、『グラン・トリノ』の床屋!)なんだけど、想像を越える暖かさと寛ぎをもって妊婦のマージをサポートする最高の人物像として君臨している。彼は事件には一切関与しないし、マージが何をしているのかさえ把握していないが、彼も「ノー・カントリー」のジョーンズ同様、なぜか常に物語の核に存在し続けている。一方、物語に関与もしないし結局何だったのか分からない「マイク・ヤナギタ」とマージのエピソードも忘れ難い魅力があった。カットしてしまっても映画的には何ら支障のないくだりだが、「ファーゴ」を形成するにはやっぱり必要なんだろうな。

2010年11月9日火曜日

40

子供の頃は、40才などというと「完璧に大人」だと思っていたけど、いざ自分が40才になってみたら、何ということはない自分の時間が延長されているだけで、何が成長したのか、さっぱり分からない。しかし、およそ自分が仕事帰りの仙台の夜の街を、iPodでミカバンドを聴きながら、自転車で走っている姿などは想像だにしなかった。

10年前は、火星の庭で紙袋をかぶって笛を吹いたり、新聞の紙鉄砲を鳴らしながらオルガンを弾いたりしていた。
20年前は、DX7とRX11でテープを作っていた。デア・プランがアイスラーをコピーしたようなテープだった。
30年前は、YMOの「タイトゥン・アップ」のシングル両面を死ぬほど聴きまくっていた。死ぬかと思うぐらいカッコイイと思った。
思い返してみると、何も変わってないなと思う。違うのは、住んでいるのが仙台で、結婚していて、バンドをやっていて、部屋に閉じこもったりしていないという事ぐらいか。いや、大きな進歩なのかもしれない。

30代最後の夜に、コーエン兄弟の「バーン・アフター・リーディング」を観る。キャスティングに惹かれて、敢えてパッケージのあらすじを読まずに借りてきたが、これは大ヒットだった。ことごとく笑いのツボにヒットして、観ている間楽しくてしょうがなかった。こんなに無意味で非生産的なのに、物語としてきちんと完成されている(完成してしまった)映画は観たことがない。マルコヴィッチの奥さん役のティルダ・スウィントンが超カッコイイ。コーエン兄弟の「赤ちゃん泥棒」「ミラーズ・クロッシング」は大好きな作品だが、その後の「バートン・フィンク」と「未来は今」がどうもダメで、それ以降は全く観ていなかったから、また楽しみが増えた。「ファーゴ」とか「ノー・カントリー」とか、少しずつ観よう。

2010年11月6日土曜日

長文は書かないと決めていたのに長文になってしまった

友部正人「6月の雨の夜、チルチルミチルは」のCDを中古で購入した。
この作品は中学の頃、兄の同級生の祐子さんという人がカセットテープにダビングしてくれて、繰り返し愛聴していたものだが、そのテープがあるせいか、ずっとレコードやCDを買っていなかった。店頭でジャケットを見たら胸がざわついて、買わずにはおれなかった。最近はこんな感じで、むかし聴いてずっと離れていた音楽に再会することが多い。

表題曲の「6月の雨の夜、チルチルミチルは」は、中学生の頭ではなかなか理解しづらい曲だった。いま聴いても、とても不思議な曲だと思う。歌の主人公である「僕」は、彼が「チルチルミチル」と呼ぶカップルに歌を歌って聴かせているので、友部自身を反映しているように思える。「チルチル」はどうやら主人公と仲が良いらしいが、6月の雨の夜に、彼は「ミチル」を連れて「死の国」へ旅立ち、主人公が朝に独りきり残される情景がサビで繰り返し強調される。女を連れて旅立ってゆく古い友人と過ごす、最後の夜を歌ったものであるらしいことぐらいは、子供の僕にも理解できた。チルチルとミチルは恐らく、これから死にに行くのだろう。それは主人公が後半のヴァースで『もしも死にに行く人になら いい思い出だけにはなりたくはない』と歌っていることから容易に想像できる。
チルチルには2人の子供が居るらしいが、それがミチルとの間に出来た子供なのかは不明である。たぶん違うだろう。しかし「4人が作る沈黙」と歌われているが、これはなぜ「4人」なんだろうか。主人公とチルチルとミチルとで、3人ではないのか。それとも、子供たちはやっぱりチルチルミチル夫妻の子供で、4人というのは主人公からみて、チルチル一家という勘定なのか。だとするとこの歌の不思議さは一気に氷解してしまう。単に一家心中する友人家族を見送る歌にしかならないからだ。そういうわけで僕は、あとの1人は主人公の奥さんなのだと、勝手に決めてしまった。
何となく僕は、チルチルミチルは死なないだろう、という気がするし、子供もミチルとの子ではない、即ちチルチルは家庭を捨てた男なのだろう、という気がする。どちらかというとそう思いたい。そんな人間を最後に見送ってくれるのは主人公だけだが、その主人公でさえもがチルチルの行く末を「死の国」と冷たく評しているのだ、と思いたい。これがもしそういう歌でないのなら、アルバムのラストを飾る母子家庭の歌「愛について」との対応関係が崩れてしまうし。

改めてブログに書くような事ではないけど、友部正人は天才だと思う。
入ってくる人と出る人と 喫茶店の入口は
ただ外と中とを分けるだけじゃなく
男の現在と過去とを分けている
などと歌われると、僕などはもうこれだけで目頭が熱くなってしまう。

その当事者にしか分からない情熱というものがあると思うが、友部は大体においてそういう情熱を歌っているように思う。その情熱の度合いが強過ぎて、歌詞がどんなに曖昧だったりシュールだったりしても、被膜を突き破って差し出されるものがある。昨夜みたチャールズ・ブロンソンの「狼よさらば」もそういう話だった。「タクシードライバー」や「荒野のストレンジャー」もそうだが、70年代のアメリカにはこういう映画が多い。ごく客観的に観ればブロンソンもデ・ニーロもクリントも怪しげな殺人鬼だが、その内側に、簡単には理解され得ない不思議な情熱を隠し持っている。その行き場のない孤独感をいかに映画的に描写して観客に差し出すかが醍醐味なわけだが、「狼よさらば」ではとりわけ、ハービー・ハンコックの音楽が秀逸だった。殺人(制裁)衝動に駆られて夜の街を彷徨するブロンソンの姿が映し出される場面...普通なら緊迫した、スリリングな音楽を合わせるべき場面だが、ハンコックの音楽は妙に弛緩した、不調和な、「なんでこの画面にこの音楽が」と笑ってしまうようなものだったりする。そこへ意識が行った途端に、ブロンソンの行動が単なる、家族を嬲りものにされた男の復讐劇とはまた違った、なしくずし的な、極めておかしな行動であるように思えてくる。なにか見てはいけないものを見ているような、主人公を応援していいものかどうか躊躇してしまうような空気になってくる。その感覚はやがて、ラストショットのブロンソンの笑顔に着地する。あの笑顔はもう、狂気以外の何物でもない。

追記:どうやら、「6月の雨の夜、チルチルミチルは」という歌は実際にあった出来事を元にして作られたものらしい。事情を知らずにあれこれ想像を巡らすほうが幸せなのかもしれないが、折をみて祐子さんにでも訊いてみよう。

2010年11月5日金曜日

元メンバー

一昨年の暮れにバンドを去った哲雄さんから、久しぶりにメールが来た。
哲雄さんは2004年初頭にyumboに加入し、「明滅と反響」期のバンドに多大な貢献をしてくれたギタリストである。
現在は東京に住んでいて、自分の曲を作ったりしているという。

yumboの元メンバーというのは、哲雄さんを含めて6人居る。
大月さんや僕とyumboを作った稲毛さんは女流雀士として活躍しており、山路さんの前任ドラマーだった庄司君は仙台でobsというバンドをやっている。
「小さな穴」期のギタリストだった大津さんは今はどうしているか知らないが、ボサノヴァとマーティン・ハネットと山登りが好きという変わった人だった。
同じく「小さな穴」期にトロンボーンやベース担当だった中平さんは脱退後に一度、僕のイベントでソロで歌ったことがあったが、今も歌っているのだろうか。
あゆ子の前任のヴォーカリストだったあや子さんも音信不通だが、どうしているだろうか。

バンドにはメンバー・チェンジはつきものだし、それぞれ辞めていった理由は異なるが、みんなよく、僕みたいな者の無茶な要求に笑顔で応えてくれたと思う。作品を聴き返せば、彼らの演奏は今でも生々しく甦ってきて、間違いなくyumboの一部を形成したことを主張している。

聴いている人からしたら、前のメンバーに戻って欲しい、と思ったりするのだろうか。XTCにデイヴ・グレゴリーが戻って欲しいとか、レインコーツにヴィッキー・アスピナルが戻って欲しいとか、マヘルに中崎博生が戻って欲しいと思うように。しかしそれはとても難しい事だ。大月さんは一度脱退して7年近く経って戻ってくれたけど、彼は脱退/加入、結成/解散を繰り返すのが趣味みたいな人だから特殊な例である。

Youtubeで電気グルーヴの歴史みたいなビデオを見ていたら、20周年記念ライヴにCMJKがゲスト参加している様子が映っていたけど、さすがにああいうのは恥ずかしいなあと思う。いいけど恥ずかしい。

2010年11月3日水曜日

パラダイス

同じ業務を担当していて仲良くさせて頂いたKさん、Cさんにも退職することを伝える。別れを惜しんでくれる人が居るというのは何て幸せなんだろう。今日の業務は地獄のようだったが、この地獄を共有している感覚だけが救いになっているので、本当に感謝している。KさんもCさんも、普通に考えたら一生接点の無いだろう人たちだけど、いろいろ話していると、彼女らの生活空間の苦しげな断面がうっすらと見えてきて、胸につっかえるものがある。それはもちろん、僕にも身に覚えのある苦しさであって、これは決してあるがままに共有は出来ないけれど、暗黙のうちに我々負け組庶民の舟板を形作っている苦しさなのは間違いない。

アル・グリーンの歌声がしみる仕事の帰り道に、ついにうるまを買った。2個で500円、本当に安い。1本吸っただけで重いものが体に入ってくる。煙草本来の痛烈な効用があると思う。

ナツが買った立子さんのカップが炬燵に置いてあった。ミルク色と赤茶色のバランスが美しく、過去の暖かい思い出と現実の肉体の内側の残酷さがロマンチックに断層を成している。

カウリスマキの「パラダイスの夕暮れ」を観る。未見だと勘違いして借りたけど、前に観たことがある映画だった。ゴミ収集会社の車庫が堂々と映し出されるタイトルバックからして痺れる。役者の顔がみんな貫禄があり素敵だ。あと挿入されるロックンロール度がカウリスマキ作品の中で一番高いかもしれない。

カート・ラッセル

早健が一家で宮城へ越してきたという。久々にメールをもらったが元気そうだ。早健というといつも思い出すのは、サニーデイの掃き溜めみたいなイベントに呼んでもらった日の事だ。あの時はピアニカでドローンのテープを作っておいたのを流しながら、ヴァイオリンをえんえん弾いたのだけど、ラ・モンテのようにはいかなくて、結局山口冨士夫の曲に混ぜてもらってロックンロールにオルグられたような形になったのだった。松倉君とか元気かなあ。相変わらず全裸でギター抱いて寝てるんだろうか。

前から興味はあったけどなぜか観てなかった「潮風のいたずら」を観る。カート・ラッセルがいい具合に中年の魅力を滲ませ始めた頃の映画で、ゴールディー・ホーンも期待通りだった。トラックの荷台で虫を飲み込んだ時の演技が秀逸。エンディングテーマがランディ・ニューマンだったけど、レイ・チャールズをデヴィッド・フォスターがプロデュースしたように聴こえるような痩せた曲で、'87年という時代を感じさせる。

福ちゃんから、明日にはデザイン上げる宣言。大阪公演に間に合うか?

2010年11月2日火曜日

カリブ

今日の夜の全体周知で、僕が働き始めた時は私服でSPをしていた人たちがスーツ姿になって、口々に「長い人生」という言葉を使って周知した様子は、ジョン・アーヴィングの小説のエンディングみたいだった。何も終わるわけではないのに、純粋さが完全に打ち砕かれて、誰もが逃げられず、なおかつ傷つくわけでもなく、諦めて留まっている感じ。何だか眩しいような恥ずかしいような気分で、今ではすっかり傍観者の位置を決め込んでそれを眺めている自分。

Oさんに「蒸発するとしたら何処へ行きたいですか」と訊いたら、即答で「カリブ」と言う。キース・リチャーズが住んでいるかららしいが、カリブの音楽は好きになれないらしい。Tさんはスペインに住みたいとか言ってたし、なんかこういうのも、普段は隠されている奇妙な情熱が人々から垣間見えて、誰も評価してないけど自分だけが手に取ってしまった物語を面白がって読むようなもので、ひそかな喜びがある。

夜、究極のおやつ映画「フェノミナン」を観る。トラボルタが奇跡の人をずる賢く演じている。フォレスト・ウィティカーの相手役のエリザベス・ナンジアトという女優がとてもいいと思ったが、まともに観られるのはこの映画ぐらいのようで残念だ。