2010年12月30日木曜日

冬のヒング

 スパイスが届いてからというもの、毎日カレー作りに明け暮れている。
1日目はキャベツのムング・ダル・クートゥと大根のサンバルと黒ごまのチャトニ、2日目はかぼちゃのチャナ・ダル・クートゥとインギ・プリ、3日目はパラク・ダルとトマト・パプと黒ごまのチャトニ。一度に6〜8人分を作るので、2人で毎食食べても食べ切れない。昨夜は朝倉とあゆ子に来てもらって随分助かった。カレーは概ね好評だったものの、yumboメンバーの通過儀礼としてあゆ子にヒングの臭いを嗅がせて顰蹙を買ったり、自分でさえ引くほどに激辛となったインギ・プリの最後の1杯分を小野君へのお土産として持たせたりしてしまった。
 物販用の現実バッジで遊んでいる様子。

一昨日だったか、深夜のテレビで偶然始まった映画「ニューヨークの恋人」を観る。「ナイト&デイ」がヒットしたのでマンゴールドの旧作が放映されたのだと思う。タイムスリップものは好きだし、見始めた映画は最後まで観る方針なので、3時まで起きて頑張って観た。 初めて見たリーブ・シュレイバーという役者がいい味を出していて、彼が演じたスチュアートという男の「僕は虹を見た犬なんだよ」という終盤の台詞が良かっただけに、彼の扱いがぞんざいだったのが惜しい。やっぱりタイムスリップものの最高峰は「レイト・フォー・ディナー」なのか。
おやつ映画を観た反動で、生涯で出会った中で最高の映画の1本である「エンジェル・アット・マイ・テーブル」を見返す。やはり何度観ても、思わず拍手したくなるほど素晴らしい。ジェーン・カンピオンは決して天才とか名監督の部類に入る人ではないと思うけど、この映画があるなら他にどんな駄作を撮っていたって構わない。DVDを買ったのは随分前なのに、特典映像(未公開シーンとメイキング)に今更気付いて、それも興奮して観る。少女時代のなわとびのエピソードはカットすべきではなかった。

2010年12月26日日曜日

冬のミンティア

上野大津屋にまとめて注文してあったスパイスやダルなど全22品目が届き、 喜び勇んでガラス容器を買い揃えて袋から詰め替える。何年も前に関さんの家でスパイスをガラス容器で保管しているのを見てから、ずっと真似したいと思っていたのだ。梅田町に居た頃は南インドカレーをよく作ったが、しばらくブランクがあり、放置してしまったスパイスもダルも著しく鮮度が落ちて惨憺たる有様になってしまったので、引っ越しの際に廃棄したきりだったから、こうしてまとまった種類と量のスパイスが手元にあるというだけで、いやがおうにもテンションが上がる。今日は手始めに黒ごまのチャトニを作ってみた。テンパリングの油を初めてギーで試してみたら、チャナ・ダルやウラド・ダルの香ばしい香りや、久々に嗅ぐヒングの馥郁たるボロ雑巾の香りに、独特のまろやかな油脂の香りが相俟って、調理中にもかかわらず昇天しそうになってしまった。
 今週頭に、ふと思い立って小栗康平の「眠る男」を観た。何年か前に「伽倻子のために」目当てで購入したボックスに収められているのを分かっていながら、観る気が起きなくてずっと放置していたものである。その日行ったEBeansの古書市で、この「眠る男」の企画から完成までのいきさつをまとめた本を見かけて、パラパラと立ち読みしたところ、映画の企画そのものが群馬県の村おこし的な製作意図によるものだったことを今更知った。本に掲載されていた、完成後の県民たちの反応があまりに冷淡なものだったので、むしろ興味を惹かれて「じゃあ自分で観て確かめてみよう」と思ったのだけど、案の定、カウリスマキとアンゲロプロスの中間の小径を虫が這うような映画で、僕は面白く観たが、これほど死のイメージが横溢する映画が「県の製作した映画ですよ」と言われれば、確かに多くの人は困惑するかもしれない。そういう顛末も含めて、小栗康平らしいといえばらしい。終盤の竜巻のシーンが見事で、夢に出てきそうだった。

来年から始める仕事の準備のため、渡辺玲の「カレーな薬膳」を再読したくて図書館へ行ったついでに、音響ライブラリで何か無いかと物色した末、ティム・バートンの「エド・ウッド」とソクーロフの「マリア」という、まるでちぐはぐな2本を借りてしまった。「エド・ウッド」は大して期待していなかったけど、おやつ映画と呼ぶには名演・名場面が盛り込まれた美しい力作だった。僕が観たなかではバートンの最高傑作だと思うし、なおかつ、いまひとつピンと来ない俳優の一人であったジョニー・デップの、「ギルバート・グレイプ」に並ぶ好きな作品となった。あと、「インディアン・ランナー」でも愛らしく好演していたパトリシア・アークエットのキャスティングが嬉しい。中でもおばけ屋敷のデップとアークエットの場面はモノクロであることを最大限に生かしたファンタジックな画作りで、あれは非常に秀逸なアイディアだった。

一方の「マリア」は、40分と短い作品ながら、ずっしりと重い錨を心に沈められたような佳品だった。まずオープニングの、大きなガラス瓶から水を美味そうに飲む農婦マリアの笑顔に圧倒される。マリアの死によって分断された9年後の後半における、長い長い一本道をえんえんと映し続ける憂鬱な旅のシーンは、長く付き合った大切な友人が、知らぬ間に鬱病に罹って苦しんでいたことを知った、昨日の深夜の気持ちを予兆させるものだったのかもしれない、などと今になって思う。意を決して友人のブログを読もうと決意した時、ひょっこり彼からメールが来て、娘さんが「わたしたちの勝利」や「これが現実だ」を聴くと笑って踊ります、と書いてくれて、もう何もいらないと思うぐらい嬉しかった。彼にしか伝わらないと思うけど、そういうわけで今日のチャトニは格別に感慨深い味だったのである。

窓の外は、今朝にはすっかり雪景色となった。内装業者との打ち合わせのために自転車に乗って、雪のちらつく街を走ると、出掛けに口に含んだミンティアのせいで口の中がシベリアのように冷たくなった。そういえばRCサクセションに「窓の外は雪」という名曲があって、シングルのB面だったその曲をとても好きだった10代の頃に、ドイツで録音した時のPhewみたいな音でカヴァーしたのを思い出したりした。
 アルゼンチン出身のRocco Negriの版画の絵本。馬に乗ってショファーを吹いている!

2010年12月19日日曜日

東京、北野、岸野、ドーリスと大道あや

大阪から帰って翌朝、今度は東京へ。高速バスで5時間半だが、大阪へ行ったばかりなので随分近く感じる。西荻の春名知惠子さん個展会場・ギャラリーMADOへ。知惠子さんに会うのはいつ振りだろう。マヘルか何かで上京した時だったろうか。古い洋館を利用したギャラリーには、変わらず心を惹き付けられる作品たちと、知惠子さんが居た。来年僕らがやろうとしているお店に是非置きたいと思い、作品を2点購入する。お土産で持参した「たまにわ」や「これが現実だ」を渡すと、知惠子さんは自分の作品展そっちのけで、僕らの作品についてあれこれ質問したり、感想を言ってくれるので恐縮しつつも、有り難く思う。夜になって仕事帰りの周作さんも来て、4人で撤収作業。会場前で記念写真を撮ってから、西荻の春名邸で夕食を頂きつつ、映画の話、探している本の話などして過ごす。リラクシン。
翌日は昼に渋谷のYouthへ斉藤さんを訪ねる。特典CDRの「Into The Wild e.p.」を見せてもらったが、いい感じの盤面に仕上がっており嬉しい。来年のレコ発ツアーの話など。新宿でナツ、福ちゃんと合流し、バス乗り場の近くの店で800円以上もするハンバーガーを食べた。

仙台に戻ると雪がチラチラ降っていて、すっかり冬の空気だ。もう一度「南極料理人」を観たいと思いTSUTAYAに行ったら、「アウトレイジ」が出ていたので一緒に借りる。椎名桔平、加瀬亮、三浦友和など、役者が見事にはまっている。あの人間の撮り方は、北野もきっとカサヴェテスを研究したのに違いないと思わせる。小日向のマルボーの役回りや、雪崩のように暴力が連鎖していく感じはヤクザ映画の伝統を丹念に踏襲しているが、いつもの笑いの感覚も決して忘れていない。少なくとも「HANA-BI」や「菊次郎の夏」のような押し付けがましいアート臭さが皆無なので素直な気持ちで観られる作品だと思う。
昨日、戸田君と濱田さんが来宅し、「これが現実だ」「Bricolage」などをお渡しする。戸田君にドーリスの1stを譲ってもらう。濱田さんの新バンド「ケ・セラ・セラ」(そういえば僕が命名した)に女性ヴォーカルを加入させるかどうか、仮に加入させるとしたらそれは日本人か外国人かで喧々諤々となる。僕は「大きい外国人を入れるといいと思う」と提案した。

夕方にギャルソンで森君と落ち合い、大阪の物販の清算、および仙台でのレコ発の打ち合わせをする。ワンマンにするか対バンを入れるかで悩むが、最終的には、これ以外無いというぐらいばっちりハマった対バンを思いつき、2人でほくそ笑んで別れた。うまく話がまとまるといいなあ。対バンといえば、計画中のレコ発ツアーの方でも「希望する対バンは居ないか」と斉藤さんから訊かれていたが、今日の昼間にYoutubeでWatts Towersを観ていて、岸野雄一と宮崎さんのデュオ(この形態は一度スターパインズで観たことがあり、素晴らしかった)なんかいいなあと思った。岸野雄一の歌やパフォーマンスには文字通りの笑いとペーソスが力強く盛り込まれている。世界の何処に、ふぐの学校とか、兎の暖かさなどについて、あんなに素敵に歌える人が居るだろうか。
夜、戸田君に譲ってもらったドーリスのLPを聴きながら、大道あやの「へくそ花も花盛り」を眺める。「へくそ花」は文庫版しか持っていなかったが、最近、ようやくオリジナルの函入りを手に入れた。こちらは豪華画集が付いており、見たことのない絵もいくつか載っている。ドーリスのダダっぽい奔放で苛烈な音楽と、事物の核心を突きまくる素朴な大道の絵は一見水と油のようだが、どちらも同じように、とびぬけて美しい世界を形成している。

2010年12月17日金曜日

OSAKA PICTURE

8日の早朝5時台に家を出て、約12時間かけて心斎橋ウイングフィールドへ。音楽系の人間は会場を「ハコ」と呼ぶが、芝居の人間は「コヤ」と呼ぶ。我々は今回出演者・スタッフ合わせて総勢14名の大所帯だが、うち男性陣は全員会場で寝泊まりする(小屋泊と言う。会場での打ち上げは小屋打ち)。会場で寝泊まりということは舞台や客席に寝袋で雑魚寝するわけで、ひっそりした真夜中の芝居小屋で横になっている時の侘しさは、市川森一の名作ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」を想起させていたく気に入ってしまった。

初日の夜はみんな飲みに行くなどして出払っており、風邪で大事を取るのに小屋で留守番をしていた本儀さんと一緒に映画「南極料理人」のDVDを観 た。堺雅人、きたろう、生瀬勝久、高良健吾、豊原功補など、役者が皆いい顔をしている。演出は控え目な笑いに貫かれており、役者の存在感と、広角を多用し た明快な画調で親しみが持てる作りだ。人に勧められて映画を観るなんて滅多に無いことだけど、食わず嫌いは損をするなと実感した夜だった。

翌9日から仕込みが始まる。黒幕を吊ったり照明や音響、舞台のセッティングをするわけだが、yumbo組は仕込みの間は昼夜の炊き出し班として活躍させてもらった。yumboは全員料理が好きなので、キャンプにでも来たかのように嬉々として料理する。僕は久しぶりに南インドカレー(マッシュポテトの奴)を作ったけど、ブランクのあるせいで腕が鈍ったか、ししとうの入れ過ぎで苦みが出てしまったり、持って行ったターメリックの鮮度が落ちていて発色が悪かったりと若干問題があったが、森君に喜んでもらえたので充分だった。
また、公演初日である10日の午前中に出来たての「これが現実だ」が段ボールで100枚、7e.p.から届けられた。漸く現物を手にして、感慨に浸る。「小さな穴」から「明滅と反響」はそうでもなかったけど、このアルバムに至るまではなかなかの苦難の道のりだったなあと思い返す。サポートしてくれた大勢の皆さん、本当にありがとう。

ライヴの場合と違って、芝居の事前のチェックや準備は実に入念である。音響のレベルチェックや照明のシュート、出はけや転換などのきっかけの確認を 細かく行なう場当たり、更に全体の流れに沿って音響・照明を同時に確認していくテクニカル・リハなどというものがあるのに、そのうえゲネプロまでする。そ して開場直前に暗転チェックをして、客入れ、本番となるわけで、なにもそんなに...と思うぐらい念入りに確認や練習を繰り返すわけだが、演劇は音楽のラ イヴよりも段取りがしっかりしているし、映画のように編集や撮り直しも出来ないその場限りの勝負だから、この準備や確認が非常に大きな意味を持つことにな る。緻密に練られたタイムテーブルに従ってこうした演劇の準備や確認に身を投じていると、ふだん我々yumboがいかに生温い世界に生きているかが分かる というものだ...というのは大袈裟かもしれないけど、実際、スタッフの機敏な動きや、無駄のない時間の遣い方、判断の素早さなどを見ていると、なかなか これは真似できないと思う。
今回の大阪公演は10日から12日の3日間で、マチネ2回、ソワレ2回の計4回を行なった。それと連日の打ち上げ、飲み。ふだん酒を飲まず、自分から進んでは居酒屋などに行かない僕にとっては、このツアーで一年分ぐらいの飲み会に参加したような感覚があったが、生田さんによると、そういう場に来ていた方々の多くはA級Missing Link、桃園会、空の駅、遊撃隊、エイチエムピー・シアターカンパニーといった大阪およびその周辺の名だたる劇団の主宰者や役者さんだそうで、演劇の事を何も知らない僕のような者には勿体ない場だったのだなと後になって思ったりした。ちょっとした所作や言動から、皆さんの底知れないエネルギーやアウラを存分に受けた毎日であった(画像は、三角フラスコの小濱君と、2008年の『チヨコレイト』でお世話になったS-paceのセッキン)。
13日にまた12時間かけて仙台に戻り、どしゃ降りのなか荷物を降ろして帰宅。猫たちは火星の庭の前野さんに定期的に見てもらっていたので、2匹とも荒れることなく留守番していた。しかし間髪を入れず翌日から2日間の東京行きを控えていたのだが。

2010年12月7日火曜日

twitter

「twitterやろうかなあ」と思う、という夢を見たが、目が覚めてみるとそういう気持ちではなかった。なぜやりたいと思ったのか、夢の中では筋の通った動機があった筈なんだけど、さっぱり思い出せない。そもそも、あんな面倒臭いもの、僕に出来るわけがない。人のは読むけど(内海桂子師匠のとか)、自分で自分の情報をリアルタイムで発信するマメさも欲求も無い。それ以前に、携帯電話を持っていない時点でアウトだ。携帯も同じで、人と連絡を取るのに生じる時差を出来るだけ短くする道具なわけだが、これも今のところ必要性を感じない。持っていたとしても僕の携帯になんて誰も電話しないだろうな。
カサヴェテスの「フェイシズ」は、全編鳥肌が立つほど面白かった。恐らくカサヴェテスから最も縁遠い人種だったであろう、中流階級のビジネスマンの男たちと、その妻たちのやけっぱちな彷徨を描いている。各シーンは「アメリカの影」に輪をかけて冗漫で、惰性的にダラダラ撮っているように見えるが、見終わってみると不必要なシーンが一つも無かった事に気付いて愕然とする。ジョン・マーレイとジーナ・ローランズのエピは全くもって「なんだこりゃ」と言いたくなるほどになしくずし的な展開だが、リン・カーリンを筆頭とする「妻たち」とシーモア・カッセルのエピが対照に置かれた途端、すべてが不気味に整合性を伴って成立していく。カッセル演じるアホみたいな青年チェットを巡る奥様方の丁々発止は、ヘタなアクション映画よりも手に汗握るスリルに満ちており、一連のシーンにおけるすべての役者の演技が眩いほどに画面を彩っている。ハリウッドメジャーから振られた2作を監督したものの煮え湯を飲まされるような経験をした後に、家を抵当に入れてまで執念で撮っただけあって、凡百の映画には到底追いつけない情熱が、この映画をとんでもない地点にまで押し上げている。ああ、「ハズバンズ」、どうにかして観たい...。「カリフォルニア・ドールズ」「グレイ・ガーデンズ」共々、いま一番日本でDVDを発売してほしい作品だなあ。

明日の早朝はいよいよ、大阪へ出発だ。公演直前になって、「Bricolage」が出来上がったり、「これが現実だ」の先行発売も決まったりで、急に忙しくなってきた。芝居の内容も、面白いマイナーチェンジが施されているし、また新たな気持ちで臨めそうだ。心配なのは自分のMCと、ポスト・パフォーマンス・トークかな。

2010年12月4日土曜日

Bricolage

昨夜の稽古の時に本儀さんからマルチをミックスした音源を追加で頂戴し、再編集の末、アルバム「これが現実だ」のバックヤード音源集「Bricolage」が、アルバムより一足早く出来上がった。収録曲36曲の内訳は、3rd収録曲が9曲、2nd以前の既発表曲が7曲、残りの20曲が未発表曲や新曲、あるいは会場配布盤などにしか入っていなかった曲である。これまでにも1st「小さな穴」に対応した「The Black Lodge Transition」、2nd「明滅と反響」に対応した「vespid collection」という編集盤を出していて、もはや恒例のようになっているが、今回のは一番ライヴ度が高い。もちろん3rd収録曲のデモ音源は沢山あって、全て丹念に聴き返してみたけど、改めて人に聴いてもらいたくなるような出来のものは全然無かったのだ。その代わり、ライヴでメンバーによって演奏されたバージョンには面白いものが多かったし、アルバムからオミットされた楽曲も勿体ないということで、このような構成になった。自分の好きなバンドがこうした寄せ集めの編集盤を出すなら、きっと嬉しいだろうなと思えるような内容だと思う。そういえばStaubgoldは今度、Flying Lizardsの未発表音源をシングルで出すらしいので、楽しみだ。

それで今日は一日中、ジャケットとか附属のブックレットの版下のコピー、割付、切り貼り、ホチキス留め、裁断...といったアナログな作業に明け暮れた。僕は16才の頃から何年か、コピーを綴じたミニコミを作っていたので、こういう作業は大好きだ。文字を組んで、レイアウトして、プリントして、ブックレットの体裁になっていくさまは快感の一語に尽きる。いまだにイラストレーターの使い方がよく分かってなかったり、ちゃんとした印刷やプレスCDの発注の仕方も分かってないのはどうかと思うけど。そしてメディアはCDなんかより、ソノシートで出したい派だし...もう生産してないか。
もうすぐ大阪公演が始まるので、猫の様子を誰かに見に来てもらわなければならない。

2010年12月2日木曜日

カサヴェテスを簡単に観てはいけない

ついに仕事を辞めた。最後はとてもあっけなくて、会社の建物から外に出たら、心許ないような、嬉しいような、複雑な気分に取り巻かれた。来年からは新しい仕事が始まる。

「ER」の第14シーズンを観た。アメリカでは既にファイナルの第15シーズンの放映がとっくに終わっているが、DVDがレンタル屋に並ぶのはまだ先の話だろう。第1シーズンから律儀にレンタルで見続けてきたが、この14シーズンは全19話とこれまでで一番短く、エピソードの流れも比較的あっさりしている。ルカの不在がストレスとなり静かに崩壊していくアビーのストーリーを中心に、プラットの一進一退の色恋沙汰、新入りドクターに幻惑されるドゥベンコ、脚本家たちの戦略によって無駄に好感度を上げ続けるモリス、サムとトニーの急接近、などが散りばめられているが、実は本シーズン最大の見所は、ニーラが面倒を見るインターンのハロルドだろう。最初に登場したエピソードでは見るに耐えないと思ったが、回を追うごとにハロルドの言動がツボに入り、最終的にはハロルドが何か言うたびに爆笑するまでになっていた。ナポレオン・ダイナマイトに通じるキャラクター。吹替の声優も非常にうまいと思う。

片思いのようなカサヴェテス熱は依然として続いている。というか、ほとんどの情報がいとも簡単に手に入ってしまうこの時代に、こうも満足に作品を観られないというのがまた、たまらんものがある。手元には「ジョン・カサヴェテスは語る」「カサヴェテス2000 劇場用パンフレット」「Switch別冊 映画監督ジョン・カサヴェテス特集」というカサヴェテス関連の書籍(どれもナツが買ったもの)がかき集められ、とっかえひっかえ読んでは、日本ではDVD化されていない「ハズバンズ」に思いを馳せたり、「ミニー&モスコウィッツ」のスチールを見ただけで泣けてきそうになったりして、自分でも異常だと思う。とにかく、イーストウッドやコーエン兄弟やリンチのようには、簡単にコンプリートで観ることはできないジレンマに直面している。

今では僕もご多分に漏れずインターネットの恩恵に与っているわけだが、今回の「カサヴェテスが観たいのにちゃんと観られないジレンマ」は、ネットの無かったかつての日々を懐かしく思い出させてくれる、心地よいジレンマでもある。16才の頃、札幌の南3条の雑居ビルにあったミニシアター「イメージ・ガレリオ」に足繁く通い、画像の粗いチラシを見て「どれを観るか」で胸を躍らせたのを思い出す。どれも面白そうだし、今風に言えば「ヤバそう」なんだけど、母子家庭の高校生のお小遣いには限界があり、自分の嗅覚だけで厳選した映画しか観られなかった。いろいろ観たけど、中でもメカスの「営倉」、松井良彦の「追悼のざわめき」などは強烈な印象(というか爪痕)が心に残っている。もちろん、チラシの限られた情報だけで選ぶから、失敗も多く経験したけど、それも今思えば貴重な体験をさせて貰ったと思っている。あのコンクリート臭いみすぼらしいビルの階段をワクワクしながら上がっていった気分は、忘れられない。

数年後に札幌で半年間一人暮らしをした時期は、毎日のようにレンタルビデオ屋に通って、正に映画漬けの日々だった。毎日通っていた平岸のレンタル屋で観たいものを借り尽くしてしまったように思えて、休みの日に地下鉄で適当な駅で降りてレンタル屋を探し、ビデオを漁ったりもした。何処の駅近くだったか忘れたが、ケネス・アンガーの「マジック・ランタン・サイクル」というVHS2巻組の作品集を置いている店があって、何も考えずに借りたはいいけど、帰りの地下鉄代が無くなってしまった。しかも僕は極端な方向音痴で、自分がいま居る場所と、自宅のある平岸との位置関係がまるで分からない。しょうがないので、小脇にケネス・アンガーのビデオを抱えて、煙草を吸いながら(当時は今より路上喫煙に対して世間が寛容だった)、勘だけで自宅まで歩いた。どうやって帰り着いたのか全く憶えていないが、2時間ぐらいはかかったと思う。帰宅すると膝がガクガクになっていて、喉もカラカラだった。ひとまずコーヒーを入れて一服してから、「スコピオ・ライジング」を観た。あの時の解放感、充実感もまた、忘れられない。

今日はようやくメディアテークの音響ライブラリで「アメリカの影」と「フェイシズ」を借りてきて、手始めに「アメリカの影」を観た。この映画を、あの10代の頃にガレリオで観ていたら、さぞかし甘美な思い出となったことだろう。間違いなく、映画館の暗闇の中で、スクリーンで観るべき作品であった。それを不覚にも、自宅の小さなブラウン管テレビで、猫を膝に抱きつつ炬燵に入って観てしまった。あの随所のジャンプカットの寒い快感や、役者の即興から醸し出される絶妙な緊張感、えも言われぬいかがわしさがスクリーンに投影される様は、きっととんでもなく美しいに違いない。カサヴェテスの映画はきっと、簡単に・不用意にビデオやDVD、ネットなどで観てしまってはいけないのだ。1本1本、辛抱強く、東京などの単館で特集されるのを待ちながら、ジワジワと何年もかけて観ていくのが正しいのだろう。その情報も、ネットなどで調べているようではダメだ。映画好きの東京の友達(この場合、札幌のガレリオの思い出を共有する唯一の友達である小柳さんが適役)から突然電話が来て「来週、中野でカサヴェテス特集やるよ!」と教えてもらうのが最高だ。







ドイツのStaubgoldから、フライング・リザーズの"The Secret Dub Life of the Flying Lizards"が2曲カットされてLP化された。ジャケがオリジナル・デザインということもあって迷わず購入。何気なくこういうレコードを仕入れている15NOVは懐が深い店だ。

2010年11月26日金曜日

コーエン兄弟コンプリート

コーエン兄弟祭りもついに最後の1本となった「ディボース・ショウ」を観た。これで、まだ日本公開されていない新作を除けば、作品をすべて観たことになる。今年はイーストウッド作品も全て制覇したので、なかなかの達成感である。「ディボース・ショウ」はネットで見る限りではファンの人気が低い作品で、ジョージ・クルーニーとキャサリン・ゼタ=ジョーンズといういかにもハリウッド的なスター同士をキャスティングしている点も「らしくない」感じが漂うし、確かにコーエン兄弟としては異色な、きちんと落としどころのある現代風スクリューボール・コメディである。実際のところあまり期待せずに見たが、より「コーエン兄弟らしい」と言われている「オー・ブラザー!」(どうも僕はこの作品を基準にする癖があるみたいだ)などよりも、ずっと出来はいいと思った。男女の駆け引きというプロットから無駄な脇道に逸れることなく流れるように見せる手際がいいし、クルーニーの過剰演技も本作では生きていると思う。後世に語り継がれるような映画でないことは間違いないが、少なくとも失敗作ではない。全作品を観た結果、僕のお気に入りのコーエン作品は「赤ちゃん泥棒」「ミラーズ・クロッシング」「ファーゴ」「バーバー」「ノー・カントリー」「バーン・アフター・リーディング」ということになる。

「グロリア」を観てしまったがために、今度はカサヴェテス熱が始まっているのだが、嘆かわしいことに、TSUTAYAには彼の作品はほとんど置いていない。「アメリカの影」も「こわれゆく女」も「ミニー&モスコウィッツ」も「ラヴ・ストリーム」も借りることができないのだ。これは誇張でも何でもなく、真に驚くべき事だと思う。仙台のような街の駅前のTSUTAYAで借りることができるカサヴェテス作品が「グロリア」と「ビッグ・トラブル」だけとは! 差し当たって、家にある「ジョン・カサヴェテスは語る」でも読んで気を鎮めることにする。パラパラと頁をめくっていると目に飛び込んでくるスチール写真が、どれも激しくカッコイイ。文字通り、血が騒ぐ。

yumboのHPを見たニューヨークの16才の男の子が、yumboの作品を通販してほしいとメールをくれた。ネットの自動翻訳でHPを見てくれているという。なぜ彼のような人が日本の、それもほとんど無名に近い僕らの事を好いてくれているのか不思議でならないが、よく考えたら僕も、1981年に素晴らしいシングルを1枚だけ出したサンタ・クルーズのPeer Pressureという無名バンド(彼女たちの事はポスト・パンク博士のキャルヴィン・ジョンソンさえ知らなかった。つまりyumboよりも無名なのだ)のファンだったりするわけだから、そういう事は充分にあり得るのか、と思う。

2010年11月23日火曜日

プレビュー終了


10-BOXでのプレビュー公演当日はよく晴れて暖かい日となった。
ああいった会場で人に会うと、いろいろな事を思い出す。
お客さんの中に次郎さんが居て驚いた。yumboの、確か3回目のライヴにゲストで出て頂いて、バカボンパパみたいな扮装でブレヒトの詩を朗読してもらったのだ。稲毛さんもチャイナドレスでキメキメのメイクで朗読をし、演奏は僕と大月さんと庄司君で即興を演った。即興と言っても、何回か集まって詩に合わせた演奏の大筋は決めていたと思う。なぜブレヒトだったのかは全く思い出せない。憶えているのは、詩を朗読してもらうのに「とにかく声のいい人」を探していて、「次郎さんがいい」と人に勧められるままオファーをしたのだ。いま考えると冷や汗ものだが、次郎さんは快く参加してくれて、舞台に関して(音楽に関しても、だったが)ど素人の我々の出し物にプロの技を提供してくれたのだった。
次郎さんに不承不承で「その節はとんだご迷惑を...」と挨拶すると、「俺もアレが何だったのか分からなくてさ〜」と笑って許して下さったのでホッとした。

演劇に関わるたびに圧倒されるのは、仕込みとバラシである。今回のプレビューではyumboは楽をさせて頂いて、仕込みにはほとんど参加しなかったのだが、バラシは出来る範囲(相当狭いけど)で手伝わせてもらった。吸音や遮光のために張り巡らされた黒幕や、それを吊るバトン、夥しい照明、スピーカーなどの音響機材、数え切れない量の各種ケーブル、椅子、箱馬、平台...。すべてが適切な位置に収まっていて、ひとつの世界を作り上げる。当然、バラシた後は然るべき場所に元通り格納される。その数量と手間、一つ一つの物の存在理由に圧倒される。一見つまらない、ただの黒い紐などにも、立派な存在理由があって、決して失われてはならないし、軽視される事がない。ふだん自分が居る音楽の世界のいいかげんさをこよなく愛してはいるけど、芝居の世界のあの厳密さ、精密さには、より敬意を払われるべきだと思う。

本番の後はクタクタになって、メンバーと紅虎に行って、激辛の汁なし担々麺を食べ、家に帰ってコーエン兄弟の「バーバー」を観た。主演のビリー・ボブ・ソーントンは絶対に前に観た俳優だとしか思えないが、実はそうでもなかった。「バーバー」はソーントンをはじめ、妻役のマクドーマンド以下、キャストが例に漏れず素晴らしい。演出も抑えめで、音楽は静かなピアノソナタしか使っていない。物語は悲痛で滑稽だが、決して脇道に逸れることがないので最後まで集中して観ていられる。凄腕弁護士の不確定性原理の話や、ピアノ少女の誘惑のくだり、40年代のヘアスタイルなど、意表を突いた見所が随所にある傑作であった。

今日は一転して雨降りの夜だった。疲れが体の中にたまって出ていかない感じがする。
何気なく借りてきた、カサヴェテスの「グロリア」を観る。なぜこの映画をこれまで観ていなかったのか不思議でならないが、とにかくこれまで何度も借りようと思って、その都度「今日はいいか」と見送っていた映画である。案の定というか、当然のように面白かった。完璧な映画だと言って差し支えない。ジーナ・ローランズは筆舌に尽くし難いほど素晴らしい女優だと思う。彼女を、その一挙手一投足を常に目で追っていたいという欲求のためにラストシーンまで引っ張られた作品だった。

2010年11月20日土曜日

頼まれて嬉しい

小屋入りしてからの作業が進んでいる。芝居の場合は音楽の現場と違って、みんな積極的に時間を守ろうとするし、それぞれの役割もはっきりしている し、交わされるコミュニケーションも密である。10〜20代の頃だったら間違いなく逃げ出したくなったであろう場所なわけだが、今は不思議とそんな気持ち にはならない。きっと、自分の役割が与えられたからだと思う。むかしは「そこのギアを軽油で洗っておいて」とか「倉庫からチャプスイを2ケース積んでおい て」とか、その都度言われて動くというのが僕の役割だったし、誰も僕に「あなたの曲をシーン8の暗転の後で演奏してください」などとは頼まなかった。そん な価値が無かったからだと思うし、単にそういう場所を目指さなかった(目指せなかった)というだけの事かもしれない。じゃあ今そうやって生田ちゃんから頼 まれて飛び上がるほど嬉しいかと言われると、夢中で一緒にものを作っているのだから改めて歓んでいる暇も無いのだが、少なくとも「頼まれる事の価値」には 気付いている。 

昨日の稽古は19時集合だったので、日中の空いた時間に松栄ホールのレコフェアへ行く。郵便屋さんと久々に顔を合わせて、 「あーお久しぶりです」と言ったら、「ん〜何だって?」と訊き返される。すっかり耳が遠くなってしまったそうだ。「家にあるレコード全部あげるよ...ま あ、全部反ってるけどね」などと言ったりするのは相変わらずだった。ここ数年はレコードを買うのは主にネットになってしまって、レコフェアやレコード屋で 探していたレコードに出会うという快感から遠く離れてしまった。甚だ不本意だけど、行っても買うものがないのだからしょうがない。ポートレイ・ヘッズがか げろうから出したソノシートとか、クレイオラがArt & Languageの展覧会のパンフに付けたシングルとか、そういうものは今はレコード屋から消えてしまった。1時間半近く会場内をうろうろした結果、購入 したのは「アマルガム」というピナコテカの通信紙(恐らく最終号)だけだった。オフセット12Pのささやかな冊子だが、ピナコテカ末期のタコの回収騒動の 事とか、「なまこじょしこおせえ」の解説とか、超過のスタジオ代を払おうとしないグランギニヨルへの呪詛などが綴られている。巻末には次回作として予定さ れていたA-MUSIKのLP(結局バルコニーから出た)の事とか、構想されていたインディペンデント・ジャーナルへの投稿の呼びかけなどが掲載されてお り、この当時の佐藤隆史氏の想いが詰まっている。佐藤氏は、当初はレコード制作の「作業の中に自分の自分らしい役割を見出していた」、しかし「しくじって しまった」と書いている。だから、次はしくじらないように、自分が主体となって「わたしのかわいいレコード」を出していきたいと書いている。「アマルガ ム」を読んでから、棚から「グランギニヨル」のLPを引っ張り出してみたら、ジャケに生々しい糊付の跡があった。きっと、佐藤氏が奥様と、自分の役割とい うものについて想いを馳せながら、せっせと手作業したのだろう。

コーエン兄弟祭りも佳境に入ってきて、先日は「レディ・キ ラーズ」を観た。監督が初めて兄弟名義になった作品で、トム・ハンクスが窃盗団の首領を胡散臭く演じている。スルメみたいな映画だった「真夜中のサバナ」 で過剰なキャラを演じていたイルマ・P・ホールがいい感じで立ち回っている。しかし最高なのはダイアン・デラノという女優の演じた「マウンテン・ガール」 か。窃盗団がカモフラージュのために「中世の音楽を合奏するグループ」のフリをするのだが、使用している古楽器がどれも現実離れしていてオカシイ。今では その楽器を使用するための楽曲さえも残っていないグロテスクな弦楽器があったりする。物語は他の作品同様、バタバタっと事が起こって、結局何も生み出さな いまま予想外の方向へ収斂してガクッと終わるというパターンだが、「オー・ブラザー!」に並んで娯楽性は比較的強いかもしれない。

2010年11月18日木曜日

血の轍その他

猫2匹が灯油ストーブの前でゴロゴロと熟睡する夜、時は来た!という気持ちで「血の轍」を聴く。世の中にこういう美しい音楽があるというだけで、もう全てどうでも良くなるな。ならないか。

ヴェンダースの「アメリカ、家族のいる風景」を観る。ずっと前に飛行機で観たものの英語だったので、いつか字幕でちゃんと観ようと思っていた映画だ。しかし、借りてきたDVDが家でうまく再生出来なくて、結果的に家から行ける範囲にある3軒のTSUTAYAから借りたが、どれも再生できなかった。どうやら家のプレイヤーやMacとの相性の問題だったらしく、後半の40分ぐらいをネットカフェで観て感動に打ち震えていた。無論「パリ、テキサス」を越えることなど到底出来ないし、ヴェンダースもシェパードもそうした重責から逃れるための20年を要したのだと思う。それでこれは重くもなく軽くもなく、無重力のような状態の物語となった。失踪した主人公を執拗に追うティム・ロスが、ジョン・ケイルみたいでカッコイイ。サム・シェパードは年を取って、阿部さんみたいな顔になった。


知惠子さんから、冬の個展のDMが届く。大阪公演が終わったら観に行ける日程なので、開催を知った時から大喜びしていた。知惠子さんの作品は20年以上前から(『ストリート・キングダム』裏表紙でハルナさんが被っている魚の頭から!)見ているけど、作品の動物も彼女と共に年を取っているように見える。新しい作品なのに不思議だ。

ナツがヤフオクで落とした大道あやの自伝「へくそ花も花ざかり」限定版も届いた。さすが福音館、大道ファンの心理をよく分かっている装幀に舌を巻く。文庫版で割愛されたカラー画集は筆舌に尽くし難い素晴らしさである。つくづく、先日落札しそこねた「しゃものピョートル」が惜しまれる!

来年1月はyumboが出るけど、ムーンライダーズも注目に価するCDが2点出る。一つはアーカイブス・シリーズで「青空百景」期のライヴ盤。テープのパフォーマンスなども完全収録したもののようだ。これ、聴きたかったんだよな〜。あと、いつもなら完全無視するクラウンのベスト盤(なんと11作目)だが、今度のはなかなか内容が良さそうだ。「ジェラシー」「ヴィデオ・ボーイ」「ヴァージニティ」「地下水道」などのシングルバージョンや、初出のスタジオライヴなども収録されて、いつになく大サービスである。ただ、ここまでやるなら「Beep Beep Be オーライ」もシングルバージョンで入れて欲しかった(少なくともアナウンスされている曲目には注記が無いので、期待してもいいのかもしれないが...)。

BGMが、ディランからYesの"Heart of Sunrise"に変わっていた。明日は10-BOXで一日中、21日のプレビュー公演の準備だ。このテンションで頑張ろう。

2010年11月16日火曜日

Oさん

今日はOさんが体調を崩して早退した。
Oさんは今の職場で、僕が親しく話をさせてもらえる数少ない人の一人で、あの職場に居る間は本当の意味で随分、お世話になった。日がな「飲み」や「パチンコ」や「ケータイゲーム」の話題が飛び交う職場で僕がここまで過ごしていられたのは、Oさんがあるレベルに達した音楽バカだからで、Oさんはそれに輪をかけて素晴らしい人柄であるからに他ならない。
素敵な人というのは、いつ何処に潜んでいるか分からない。そういう人と知り合えれば、多少の苦難や屈辱にも耐えることができる。ちっぽけな世界だけど、多少でもそこで生きる意味を見出すことができる。しかもOさんはその世界の小ささに、決して負けていない。

早健が送ってくれた最近の彼の作品を、iPodに入れて通勤時に聴く。銀杏くさい夜道で彼の音を聴いていると、彼のハンサムな容姿が目に浮かぶ。ずっと前に彼から、いまエンケンのローディーをやっていると聞いた時はマンガみたいに出来過ぎていると思ったが、彼のような人が実に彼らしい音楽をやっているのも、まったく出来過ぎた事だと思ったりして、妙な薄笑いを浮かべてしまう。「蝉」という歌では(僕が知る範囲では)珍しい、彼の裏声を一瞬聴くことができる。あわてふためいたような歌唱パフォーマンスのなかのアクシデントのようにも聴こえる一瞬の裏声は、とてもセクシーだ。彼は自らのハンサムさ故に、彼の音楽や歌声の細部をベーコンの絵のように歪めたり汚したりしようと奮闘する。アメリカのルーツミュージックを土台としながらも、The浜田山的なやるせないオシャレさに寄っていくのもまた、東北人の血を感じさせてくれる。

しかし寝る前には、「南蛮渡来」のCDをかけて、まだ返さないでいる常盤新平の本を読んでいたりする。江戸アケミは本当に凄い詩人だった。アケミ以外の者たちがアケミに呼応して「ぼくたち」などと声を合わせて歌う時など、背筋がゾッとする。

一昨日の夜はまたしてもコーエン兄弟の「ビッグ・リボウスキ」を観る。ジェフ・ブリッジスはあまり熱心に観ていない役者だけど、この作品は実にいい。「デュード」が登場する最初のカットを観た段階で、無条件に親近感をおぼえさせる訴求力があった。イーストウッドとの共演作「サンダーボルト」は観ないと...と思う。また、この映画でテーマ曲のように扱われているのがディランのThe Man In Meというのも微笑ましい。思わずこれもiPodに入れて聴きまくっている。「ビッグ・リボウスキ」は「ファーゴ」や「ノー・カントリー」ほどではないけど、「オー・ブラザー!」に比べれば様々な目論見が成功している作品だと思う。ジュリアン・ムーアとかフィリップ・シーモア・ホフマンなどP.T.A.組の役者が顔を出しているのも嬉しかった。

2010年11月13日土曜日

3枚目

Aさんとマンジュシャンでラーメンを食べる。Aさんお勧めの店が準備中だったため、結局僕のお勧めに行くことになったのだ。思い出話に花が咲く。二年弱というのはそれなりにヴォリュームがあるものだな、と思う。Aさんは美女と野獣の野獣みたいな風貌だが、とてもモテる。

7epのサイトで試聴も出来るようになり、いよいよ出る雰囲気が高まってきた。ここに至るまで、いろいろメチャクチャだったなあ。でも無事に出せそうなので、本当に良かった。

3rdアルバムというのは、バンドにとって非常に重要なものだ。1stにはそのバンドの持つ要素が全て顕われている、とはよく言われる事だが、今思えば本当にそうだなと思う。XTCなんかは例外だと思うけど。で、2ndでいろいろ新しい事をやって「おお!」と思わせて、3rdで同じ事を繰り返すか、おかしな方向へ走って失敗する事が多い。または、3rdでやりたい事をやり切ってバンドの世界が完結してしまう事もよくある。新しいものを提示しつつも、次を予感させるものでなければならない。このアルバムがそうなっているかは聴く人次第という気もするけど、ここからyumboを聴き始める人はとても多いだろうから、別に気にする必要もないのかな...。ただ、1stから順に聴いている人にどう受け止めてもらえるかは、少し気になる。

図書館の貸し出し期限はあっという間だ。特に、僕のような怠惰な読書家にとっては。ついこのまえ借りたばかりの常盤新平「東京の小さな喫茶店」の期限が、もう来てしまった。まだ半分も読んでいないので、またいずれ借りねばならない。全部読み終わるには、あと二ヶ月はかかるな。

コーエン兄弟「オー・ブラザー!」を観る。考えれば考えるほど名作だった「ファーゴ」の次の次の作品ということで期待し過ぎたのか、あれほどの起爆力は無かった。というか、ずいぶん前に深夜のテレビか何かで観たのに、すっかり忘れていた。尤も、とても手が込んでいるし、Tボーン・バーネットの音楽は抜群に良いし、どんでん返しのオチも素敵だったので、決して駄作ではないけれど。ものすごく苦労して撮っただろうに、映画ファンなんて勝手なものだ。もう1枚借りた「ビッグ・リボウスキ」はどうかなあ。

2010年11月11日木曜日

ノーム

以前日記を書いていた時は、出来るだけその日に書くようにしていた。どんな瑣末な事もメモをしておいて、偏執的に書き綴っていたわけだが、最終的には自分で決めた「その日にその日の事を可能な限り書く」という縛りが重荷となって、書くのが億劫になってやめてしまったので、今度のはもっとゆるやかにしようと思っている。

というわけで最近の出来事。

火曜の夜に10-Boxで芝居の稽古に入る。フラスコとyumbo合同の稽古はこれで3回目だが、我々が呑気に過ごしている間にも役者さんたちは毎日のように集まっているわけで、前回よりもずっと演技や演出が深くなっている。台詞の言い方だったり、人物の位置関係をちょっと変えたりするだけでも全然違う話になってくるものだな、と思う。稽古場で久々に外崎さんに会った。白鳥さんとの「キリギリス」の時もスタッフで入っていたので、それ以来だろうか。いつ会ってもお互い別世界の人という感じで、相変わらず会話も弾まないけど、僕は外崎さんが好きで、その場に居るだけで楽しく感じる。

稽古のあと、コーエン兄弟の'07年作「ノー・カントリー」を観る。「バーン・アフター・リーディング」の前作にあたるわけだが、こちらは一転してシリアスな演出で占められている。家畜用のエアガンを携えてペッタリした顔で現れる「アントン・シガー」は、いままで観た悪役の中でも最悪の部類に入る恐ろしさだ。映画の中に正しい者はほとんど出て来ないし、善人は結局、何も解決出来ずに終わる。この、結局何もしないトミー・リー・ジョーンズの保安官の人物像は、一種の発明だと思う。ほとんど役に立たないのに、不思議と物語の中心というか核の部分にブレずに存在しているのが凄い。「パーフェクト・ワールド」のイーストウッド(大好きだけど)とは大違いだ。

翌日(昨日の夜)、同じくコーエン兄弟の'96年作「ファーゴ」を観る。これもまた大傑作の犯罪もの。この頃はまだジョエル・コーエンが単独で監督していたわけだが、映像の気合いの入り具合はこの時から既に尋常ではなかった。諸悪の根源であるメチャクチャな男・ジェリーを「マグノリア」の元クイズ少年役だったウィリアム・H・メイシーが、極めて魅力的な女保安官を「バーン・アフター・リーディング」で観たばかりのフランシス・マクドーマンドが演じている。 後で知ったのだが、マクドーマンドはジョエル・コーエンの奥さんらしい。登場するキャラクターはどれも素晴らしいが、僕はとりわけマージの旦那の「ノーム」が好きだった。普通なら、こういう映画で簡単に殺される奴の役にキャスティングされそうな役者(ジョン・キャロル・リンチ、『グラン・トリノ』の床屋!)なんだけど、想像を越える暖かさと寛ぎをもって妊婦のマージをサポートする最高の人物像として君臨している。彼は事件には一切関与しないし、マージが何をしているのかさえ把握していないが、彼も「ノー・カントリー」のジョーンズ同様、なぜか常に物語の核に存在し続けている。一方、物語に関与もしないし結局何だったのか分からない「マイク・ヤナギタ」とマージのエピソードも忘れ難い魅力があった。カットしてしまっても映画的には何ら支障のないくだりだが、「ファーゴ」を形成するにはやっぱり必要なんだろうな。

2010年11月9日火曜日

40

子供の頃は、40才などというと「完璧に大人」だと思っていたけど、いざ自分が40才になってみたら、何ということはない自分の時間が延長されているだけで、何が成長したのか、さっぱり分からない。しかし、およそ自分が仕事帰りの仙台の夜の街を、iPodでミカバンドを聴きながら、自転車で走っている姿などは想像だにしなかった。

10年前は、火星の庭で紙袋をかぶって笛を吹いたり、新聞の紙鉄砲を鳴らしながらオルガンを弾いたりしていた。
20年前は、DX7とRX11でテープを作っていた。デア・プランがアイスラーをコピーしたようなテープだった。
30年前は、YMOの「タイトゥン・アップ」のシングル両面を死ぬほど聴きまくっていた。死ぬかと思うぐらいカッコイイと思った。
思い返してみると、何も変わってないなと思う。違うのは、住んでいるのが仙台で、結婚していて、バンドをやっていて、部屋に閉じこもったりしていないという事ぐらいか。いや、大きな進歩なのかもしれない。

30代最後の夜に、コーエン兄弟の「バーン・アフター・リーディング」を観る。キャスティングに惹かれて、敢えてパッケージのあらすじを読まずに借りてきたが、これは大ヒットだった。ことごとく笑いのツボにヒットして、観ている間楽しくてしょうがなかった。こんなに無意味で非生産的なのに、物語としてきちんと完成されている(完成してしまった)映画は観たことがない。マルコヴィッチの奥さん役のティルダ・スウィントンが超カッコイイ。コーエン兄弟の「赤ちゃん泥棒」「ミラーズ・クロッシング」は大好きな作品だが、その後の「バートン・フィンク」と「未来は今」がどうもダメで、それ以降は全く観ていなかったから、また楽しみが増えた。「ファーゴ」とか「ノー・カントリー」とか、少しずつ観よう。

2010年11月6日土曜日

長文は書かないと決めていたのに長文になってしまった

友部正人「6月の雨の夜、チルチルミチルは」のCDを中古で購入した。
この作品は中学の頃、兄の同級生の祐子さんという人がカセットテープにダビングしてくれて、繰り返し愛聴していたものだが、そのテープがあるせいか、ずっとレコードやCDを買っていなかった。店頭でジャケットを見たら胸がざわついて、買わずにはおれなかった。最近はこんな感じで、むかし聴いてずっと離れていた音楽に再会することが多い。

表題曲の「6月の雨の夜、チルチルミチルは」は、中学生の頭ではなかなか理解しづらい曲だった。いま聴いても、とても不思議な曲だと思う。歌の主人公である「僕」は、彼が「チルチルミチル」と呼ぶカップルに歌を歌って聴かせているので、友部自身を反映しているように思える。「チルチル」はどうやら主人公と仲が良いらしいが、6月の雨の夜に、彼は「ミチル」を連れて「死の国」へ旅立ち、主人公が朝に独りきり残される情景がサビで繰り返し強調される。女を連れて旅立ってゆく古い友人と過ごす、最後の夜を歌ったものであるらしいことぐらいは、子供の僕にも理解できた。チルチルとミチルは恐らく、これから死にに行くのだろう。それは主人公が後半のヴァースで『もしも死にに行く人になら いい思い出だけにはなりたくはない』と歌っていることから容易に想像できる。
チルチルには2人の子供が居るらしいが、それがミチルとの間に出来た子供なのかは不明である。たぶん違うだろう。しかし「4人が作る沈黙」と歌われているが、これはなぜ「4人」なんだろうか。主人公とチルチルとミチルとで、3人ではないのか。それとも、子供たちはやっぱりチルチルミチル夫妻の子供で、4人というのは主人公からみて、チルチル一家という勘定なのか。だとするとこの歌の不思議さは一気に氷解してしまう。単に一家心中する友人家族を見送る歌にしかならないからだ。そういうわけで僕は、あとの1人は主人公の奥さんなのだと、勝手に決めてしまった。
何となく僕は、チルチルミチルは死なないだろう、という気がするし、子供もミチルとの子ではない、即ちチルチルは家庭を捨てた男なのだろう、という気がする。どちらかというとそう思いたい。そんな人間を最後に見送ってくれるのは主人公だけだが、その主人公でさえもがチルチルの行く末を「死の国」と冷たく評しているのだ、と思いたい。これがもしそういう歌でないのなら、アルバムのラストを飾る母子家庭の歌「愛について」との対応関係が崩れてしまうし。

改めてブログに書くような事ではないけど、友部正人は天才だと思う。
入ってくる人と出る人と 喫茶店の入口は
ただ外と中とを分けるだけじゃなく
男の現在と過去とを分けている
などと歌われると、僕などはもうこれだけで目頭が熱くなってしまう。

その当事者にしか分からない情熱というものがあると思うが、友部は大体においてそういう情熱を歌っているように思う。その情熱の度合いが強過ぎて、歌詞がどんなに曖昧だったりシュールだったりしても、被膜を突き破って差し出されるものがある。昨夜みたチャールズ・ブロンソンの「狼よさらば」もそういう話だった。「タクシードライバー」や「荒野のストレンジャー」もそうだが、70年代のアメリカにはこういう映画が多い。ごく客観的に観ればブロンソンもデ・ニーロもクリントも怪しげな殺人鬼だが、その内側に、簡単には理解され得ない不思議な情熱を隠し持っている。その行き場のない孤独感をいかに映画的に描写して観客に差し出すかが醍醐味なわけだが、「狼よさらば」ではとりわけ、ハービー・ハンコックの音楽が秀逸だった。殺人(制裁)衝動に駆られて夜の街を彷徨するブロンソンの姿が映し出される場面...普通なら緊迫した、スリリングな音楽を合わせるべき場面だが、ハンコックの音楽は妙に弛緩した、不調和な、「なんでこの画面にこの音楽が」と笑ってしまうようなものだったりする。そこへ意識が行った途端に、ブロンソンの行動が単なる、家族を嬲りものにされた男の復讐劇とはまた違った、なしくずし的な、極めておかしな行動であるように思えてくる。なにか見てはいけないものを見ているような、主人公を応援していいものかどうか躊躇してしまうような空気になってくる。その感覚はやがて、ラストショットのブロンソンの笑顔に着地する。あの笑顔はもう、狂気以外の何物でもない。

追記:どうやら、「6月の雨の夜、チルチルミチルは」という歌は実際にあった出来事を元にして作られたものらしい。事情を知らずにあれこれ想像を巡らすほうが幸せなのかもしれないが、折をみて祐子さんにでも訊いてみよう。

2010年11月5日金曜日

元メンバー

一昨年の暮れにバンドを去った哲雄さんから、久しぶりにメールが来た。
哲雄さんは2004年初頭にyumboに加入し、「明滅と反響」期のバンドに多大な貢献をしてくれたギタリストである。
現在は東京に住んでいて、自分の曲を作ったりしているという。

yumboの元メンバーというのは、哲雄さんを含めて6人居る。
大月さんや僕とyumboを作った稲毛さんは女流雀士として活躍しており、山路さんの前任ドラマーだった庄司君は仙台でobsというバンドをやっている。
「小さな穴」期のギタリストだった大津さんは今はどうしているか知らないが、ボサノヴァとマーティン・ハネットと山登りが好きという変わった人だった。
同じく「小さな穴」期にトロンボーンやベース担当だった中平さんは脱退後に一度、僕のイベントでソロで歌ったことがあったが、今も歌っているのだろうか。
あゆ子の前任のヴォーカリストだったあや子さんも音信不通だが、どうしているだろうか。

バンドにはメンバー・チェンジはつきものだし、それぞれ辞めていった理由は異なるが、みんなよく、僕みたいな者の無茶な要求に笑顔で応えてくれたと思う。作品を聴き返せば、彼らの演奏は今でも生々しく甦ってきて、間違いなくyumboの一部を形成したことを主張している。

聴いている人からしたら、前のメンバーに戻って欲しい、と思ったりするのだろうか。XTCにデイヴ・グレゴリーが戻って欲しいとか、レインコーツにヴィッキー・アスピナルが戻って欲しいとか、マヘルに中崎博生が戻って欲しいと思うように。しかしそれはとても難しい事だ。大月さんは一度脱退して7年近く経って戻ってくれたけど、彼は脱退/加入、結成/解散を繰り返すのが趣味みたいな人だから特殊な例である。

Youtubeで電気グルーヴの歴史みたいなビデオを見ていたら、20周年記念ライヴにCMJKがゲスト参加している様子が映っていたけど、さすがにああいうのは恥ずかしいなあと思う。いいけど恥ずかしい。

2010年11月3日水曜日

パラダイス

同じ業務を担当していて仲良くさせて頂いたKさん、Cさんにも退職することを伝える。別れを惜しんでくれる人が居るというのは何て幸せなんだろう。今日の業務は地獄のようだったが、この地獄を共有している感覚だけが救いになっているので、本当に感謝している。KさんもCさんも、普通に考えたら一生接点の無いだろう人たちだけど、いろいろ話していると、彼女らの生活空間の苦しげな断面がうっすらと見えてきて、胸につっかえるものがある。それはもちろん、僕にも身に覚えのある苦しさであって、これは決してあるがままに共有は出来ないけれど、暗黙のうちに我々負け組庶民の舟板を形作っている苦しさなのは間違いない。

アル・グリーンの歌声がしみる仕事の帰り道に、ついにうるまを買った。2個で500円、本当に安い。1本吸っただけで重いものが体に入ってくる。煙草本来の痛烈な効用があると思う。

ナツが買った立子さんのカップが炬燵に置いてあった。ミルク色と赤茶色のバランスが美しく、過去の暖かい思い出と現実の肉体の内側の残酷さがロマンチックに断層を成している。

カウリスマキの「パラダイスの夕暮れ」を観る。未見だと勘違いして借りたけど、前に観たことがある映画だった。ゴミ収集会社の車庫が堂々と映し出されるタイトルバックからして痺れる。役者の顔がみんな貫禄があり素敵だ。あと挿入されるロックンロール度がカウリスマキ作品の中で一番高いかもしれない。

カート・ラッセル

早健が一家で宮城へ越してきたという。久々にメールをもらったが元気そうだ。早健というといつも思い出すのは、サニーデイの掃き溜めみたいなイベントに呼んでもらった日の事だ。あの時はピアニカでドローンのテープを作っておいたのを流しながら、ヴァイオリンをえんえん弾いたのだけど、ラ・モンテのようにはいかなくて、結局山口冨士夫の曲に混ぜてもらってロックンロールにオルグられたような形になったのだった。松倉君とか元気かなあ。相変わらず全裸でギター抱いて寝てるんだろうか。

前から興味はあったけどなぜか観てなかった「潮風のいたずら」を観る。カート・ラッセルがいい具合に中年の魅力を滲ませ始めた頃の映画で、ゴールディー・ホーンも期待通りだった。トラックの荷台で虫を飲み込んだ時の演技が秀逸。エンディングテーマがランディ・ニューマンだったけど、レイ・チャールズをデヴィッド・フォスターがプロデュースしたように聴こえるような痩せた曲で、'87年という時代を感じさせる。

福ちゃんから、明日にはデザイン上げる宣言。大阪公演に間に合うか?

2010年11月2日火曜日

カリブ

今日の夜の全体周知で、僕が働き始めた時は私服でSPをしていた人たちがスーツ姿になって、口々に「長い人生」という言葉を使って周知した様子は、ジョン・アーヴィングの小説のエンディングみたいだった。何も終わるわけではないのに、純粋さが完全に打ち砕かれて、誰もが逃げられず、なおかつ傷つくわけでもなく、諦めて留まっている感じ。何だか眩しいような恥ずかしいような気分で、今ではすっかり傍観者の位置を決め込んでそれを眺めている自分。

Oさんに「蒸発するとしたら何処へ行きたいですか」と訊いたら、即答で「カリブ」と言う。キース・リチャーズが住んでいるかららしいが、カリブの音楽は好きになれないらしい。Tさんはスペインに住みたいとか言ってたし、なんかこういうのも、普段は隠されている奇妙な情熱が人々から垣間見えて、誰も評価してないけど自分だけが手に取ってしまった物語を面白がって読むようなもので、ひそかな喜びがある。

夜、究極のおやつ映画「フェノミナン」を観る。トラボルタが奇跡の人をずる賢く演じている。フォレスト・ウィティカーの相手役のエリザベス・ナンジアトという女優がとてもいいと思ったが、まともに観られるのはこの映画ぐらいのようで残念だ。

2010年10月31日日曜日

うるま

仕事場の人たちに、来月いっぱいで辞めることを話す。
本当に心底、自分には向かない職種だと思いながら二年近くも続けられたのは、自分の人生につきものだった、職場の人間関係のストレスが全くと言ってよいほど無かったお陰に他ならない。本当に皆さんありがとう。

喫煙所で、F君が「うるま」を吸っていたので、1本トレードしてもらう。「うるま」は250円だというから、いっそ銘柄を乗り換えようかと思う。ささやかだが、こういう出来事がとても嬉しく感じるのは、辞めていく感傷なのか、年を取ったせいなのか。

あの奇妙な仕事をしたお陰で、曲もたくさん書けたし、思い残す事は無いなあ。
それにちょうど、「これが現実だ」の製作期間と被っていたので、忘れられない時期になりそうだ。

ナツが胃の調子が悪いというので、鶏ガラスープとネギ、カブ、卵でそうめんを作る。今後のために、90gは案外量があることを覚えておくべきだ。

Randy Newmanの"Harps And Angels"は何度聴いても凄い。凄いとしか言いようがない。